■踏み配
新宿発長野行きの下り419列車は、午前10時10分に新宿駅を出発する電気機関車ED16形7号機が牽引する8両編成であった。この列車には軍関係者が乗車する二等車と荷物車も連結されていたが、殆どが非戦闘員の一般乗客であった。
419列車は通過した八王子駅がアメリカ海軍の艦載機による機銃掃射を受けていたこと、単線区間での列車交換に手間取ったことなどの事情があり、浅川駅(現在の高尾駅)を1時間遅れの午後0時15分に出発した。この時点ではすでに空襲警報が発令中であったが、停車中に乗客から「早く出せ」と怒声が飛んでいたことや、更なる遅延を回避するため[1]、駅員や乗務員は発車させたともの見られている。
その後、419列車は第一浅川橋梁を通過した後、湯の花トンネルの手前で、進行方向左側の太平洋側から飛来したアメリカ軍のP-51戦闘機複数機(2機もしくは3機のいずれかだったと言われている)に捕捉され、機銃掃射と23センチロケット弾の攻撃を受けた。ロケット弾は外れたが、機関車と1両目は特に激しく攻撃され、トンネルに2両目の半分程が入ったところで列車が停止した[2]。この措置はトンネルから出ていた車両が反復して機銃掃射に晒される結果となったため、犠牲者を増加させることとなった。
犠牲者の数については、国鉄の資料によると49名となっているが、慰霊碑では52名以上(氏名判明のみ)としている。また、事件の慰霊会は65名以上が犠牲になったとしている。負傷者は130名以上であったと言われているが、戦時体制下のため、当時の正確な記録が残されていないという[3]。
なお、419列車は送電線が機銃掃射で切断されたため、蒸気機関車に牽引されて浅川駅へ回送され、この事件によって不通となった中央本線は、当日夕方までに送電線の再接続を完了し、全面復旧した。
明治期から昭和前期にかけて、宇都宮には日露戦争後の軍需拡大によって編成された陸軍第14師団司令部が常設され、その隷下の歩兵第27旅団司令部をはじめ歩兵第59連隊や野砲兵第20連隊、輜重兵第14連隊、騎兵第18連隊などが駐留、これに所属する10,000名を超える軍関係者が常時駐屯した。この軍関係者を顧客とする様々なサービス産業が活況を呈し、バンバを中心とする市街地が発展した。また一方で軍需産業の中島飛行機や関東工業などの誘致にも成功し、軍需に沸く宇都宮は軍都と呼ばれるようになった。
太平洋戦争の末期になると、日本本土の制空権を奪った米軍は、攻撃目標を日本軍施設や軍需工場として長距離爆撃機による空襲を開始、宇都宮師管区の管轄区域にあった北関東の諸都市(太田市や大泉町など)の軍需工場も標的となり、その生産機能は徐々に奪われていった。また一方で、日本の中枢都市や西日本の軍都への空襲も展開し、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲に代表される大規模な空対地攻撃が行われた。それでも本土決戦の方針を崩さない日本軍に対し、米軍は日本国民の日常生活を奪ってその戦意を喪失させるべく、攻撃目標を徐々に中小都市の中心市街地にまで拡大した。この頃には日本近海の制海権もほぼ米軍が掌握するところとなり、日本本土のあらゆる都市が米軍空母艦載機や占領された日本近海の離島から飛来する戦闘機による銃爆撃に曝され、軍都・宇都宮も同年7月以降、7月12日深夜のB-29重爆撃機による大空襲をはじめ、硫黄島からB-29の直掩機として飛来する米国陸軍戦闘機P-51等による急襲を受けることとなった。
1945年(昭和20)7月12日夕方(日本時間)にテニアン基地のハゴイ飛行場を飛び立ったB-29の編隊133機(第21爆撃機軍団第58航空団)は、同午後11時頃に鹿島灘から日本本土に侵入、茨城県水戸市上空を西進して栃木県に進入、同午後11時19分(米軍資料による)に宇都宮への空襲が開始された。攻撃目標は現在の宇都宮市立中央小学校であった。この日は降雨による悪天候であったため、宇都宮駅周辺、栃木県庁周辺、宇都宮市役所周辺、東武鉄道東武宇都宮駅といった中心市街地一帯、当時の宇都宮市域の約65%が被災したものの、全滅は免れた。なお、空襲は宇都宮市域だけでなく、近隣町村である雀宮町、城山村、横川村、瑞穂野村、清原村、平石村、平出村、姿川村、豊郷村地区(以上は現・宇都宮市)、鹿沼町(現・鹿沼市)、真岡町(現・真岡市)にも及んだ。翌日午前1時39分(米軍資料による)に空襲が終了し、米軍機編隊は東方に飛び去った。使用された爆弾はE46集束焼夷弾10,500発、M47焼夷弾2,204発であり、計802.9tが投下された。この空襲による罹災人口は47,976人、罹災世帯数10,603世帯、死者628名、負傷者約1,150名、焼失戸数9,490戸と言われている。
大阪大空襲(おおさかだいくうしゅう)とは、第二次世界大戦時に行われた、アメリカ軍による大阪への戦略爆撃・無差別攻撃の呼び名である。
1945年3月13日深夜から翌日未明にかけてに最初の大阪空襲が行なわれた。大阪ではその後、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、8月14日に空襲が行なわれた。これらの空襲で一般市民 10,000人以上が死亡したと言われている。
1945年3月13日23時57分 - 14日3時25分の約3時間半にわたり行われた。B29が274機襲来。米軍の照準点は、北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草。グアムからの第314航空団の43機が23時57分 - 14日1時にかけて大阪上空に達した。夜間低空爆撃として約2,000mの低空からの一般家屋をねらった夜間爆撃だった。先導機がナパーム弾(大型の焼夷弾)を港区市岡の照準点に投下し大火災発生。他の機はそれを目印に次々と焼夷弾(内蔵した48個の小型焼夷弾が空中で分散して落下する)を投下した。続いてテニアンから第313航空団の107機が14日0時10分から3時25分にかけて爆撃。浪速区塩草を照準点として投弾した。さらにサイパンから第73航空団の124機が14日0時20分から2時25分にかけて爆撃。照準点は北区扇町と西区阿波座。すでに大火災が発生している中で、北区は米軍のねらい通りには爆撃できず、他の場所に被害が広がった。この空襲では、3,987名の死者と678名の行方不明者が出た。山を挟んだ奈良県や亀岡盆地側では、火炎が山の向こうに夕焼けのように見えたという。
3月13日、14日の大空襲は深夜に行われたため、地下鉄の駅の入り口は鉄扉で堅く閉ざされていた。しかし、難波、心斎橋は猛火に包まれており、既に避難の術がなかった。そこで、乗務員の機転により、地下鉄の駅を開け、急遽梅田方面(梅田方面は被害を受けていなかった)へ電車を運行し、人々を避難させた。これによって、300 - 400人の人々の命が救われたといわれている。当時、地下鉄の職員はまだ徴兵されていない勤労学生が多く、女性乗務員も少なくなかったという。若者らしい、杓子定規に囚われない行動が多くの人命を救ったのだった。
この事実は、大阪市の公式な文書には記載されず、戦後長らくその詳細が不明であったが、1980年代後半になって新聞の投書欄に話が出たのをきっかけに証言者が現れ、日の目を見ることになった。
当時、大阪鉄道局長であった佐藤栄作は、空襲時にも地下鉄を「救援列車」として動かす指示を出していた。
1945年6月1日9時28分から11時にかけての約1時間半にわたっておこなわれた。淀川左岸と大阪港沿岸を攻撃目標とし、計509機が来襲した。米軍の照準点は福島駅近辺、福島区大開町、安治川口駅近辺、港区・大阪市立運動場(現在の八幡屋公園)、大正区福町(現在の鶴町5丁目)。大阪市西部を中心に8.2平方キロメートルに被害を及ぼした。この空襲では、港区に壊滅的な被害が出た。またP51が初めて来襲し、機銃掃射をおこなっている。
1945年6月7日11時9分から12時28分の約1時間20分にわたっておこなわれた。米軍の照準点は、焼夷弾は都島区高倉町、鶴橋駅付近、天王寺駅付近。また大阪陸軍造兵廠(現在の大阪城公園)をねらって大型爆弾を投下した。この空襲では、
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を中心とした大阪市東部と兵庫県尼崎市に被害を及ぼした。
大阪陸軍造形廠を狙った爆弾は、目標を大きく外れて市街地に落下するケースが相次いだ。この空襲では長柄橋に爆弾が直撃し、さらに機銃掃射も加えられたため、橋の下に避難していた市民約400人が犠牲になった。また柴島浄水場が破壊され、上水道供給機能が停止した。
1945年6月15日8時44分から10時55分にかけての約2時間10分にわたっておこなわれた。米軍の照準点は阪神本線出屋敷駅付近、国鉄福知山線支線金楽寺駅付近、西淀川区・神崎大橋南詰、鶴橋駅付近、天王寺駅付近の5ヶ所。この空襲では計511機が来襲し、大阪市および尼崎市をはじめ、堺市や布施市(現在の東大阪市)、豊中市、守口町(現在の守口市)などに被害を及ぼし、477人が死亡した。
1945年6月26日、
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工業拠点への精密爆撃を狙っておこなわれた。米軍の照準点は此花区の住友金属工場、および大阪陸軍造兵廠。
第6回大阪大空襲は1945年7月10日1時33分から3時6分の約1時間半にわたっておこなわれた。堺市中心部に大きな被害を受けたことから、この空襲は「堺大空襲」とも呼ばれる。
中小都市爆撃作戦の一環として、サイパン島アイズレイ飛行場第73航空団の116機が、堺市中心部に約1万3000発・778.9トンの爆弾を落とした。堺市では2.64平方メートル・約5万5000人が被災し、死者1,370人・重軽傷者1,472人・行方不明者3人、家屋の全半焼14,797戸の被害を出した。この空襲では堺市のほか、大阪市住吉区や貝塚市でも被害を出している。