■フューチャーズ

1945年7月24日に此花区の住友金属工場、および大阪陸軍造兵廠を狙っておこなわれた。117機が木津川飛行場および伊丹飛行場(現在の大阪国際空港)を爆撃したあと、住友金属工場および大阪陸軍造兵廠へそれぞれ向かった。しかし大阪陸軍造兵廠へ向かった飛行機は、一部の機が造兵廠への爆撃を実施したものの、大半の機は上空の視界不良・天候不良として爆撃を断念し、予備の攻撃目標とされていた三重県桑名市へ向かい桑名空襲を起こしている。 京橋駅南口の大阪大空襲京橋駅爆撃被災者慰霊碑第8回大阪大空襲は、終戦の前日・1945年8月14日におこなわれた。B29約150機が大阪への空襲をおこなった。米軍機は大阪陸軍造兵廠を狙い、約700トンの1トン爆弾を集中的に投下した。この空襲では、大阪陸軍造兵廠に近接していた国鉄京橋駅で大きな被害を出したことから、「京橋駅空襲」ないしは「京橋空襲」とも呼ばれる。 京橋駅周辺にも同日13時頃、1トン爆弾4発が落下した。 京橋駅にはちょうど、城東線(現在の大阪環状線)の上り列車・下り列車の2本が入線したところだった。居合わせた多くの乗客が、高架上の城東線の影になる、地平上の片町線ホームに避難していた。そこに1発の1トン爆弾が、城東線の高架を突き破って片町線ホームに落下して爆発し、避難していた乗客らが爆弾の直撃を受けた。この空襲での犠牲者は、身元の判明している人だけでも210名以上、他に身元不明の犠牲者が500 - 600名以上いる(正確な犠牲者数は不明)とされている。 第二次世界大戦末期、東京を標的としたアメリカ軍による大規模な空襲が行われた(1945年3月-5月。本作で扱われるのは3月10日。東京大空襲参照)。ヒロイン・敏子の父親はガラス工場を営んでいた。敏子の母と妹を奪った空襲の焼跡には、父が作ってくれたガラス細工のウサギが歪んだ形でありながら残っていた。その父も疎開途中の二宮町で敵機(P51ムスタング)の機銃掃射に遭い、敏子の目の前で命を落とす。 1977年、高木の両親と妹たちの33回忌に寄せて自費出版した「私の戦争体験」を加筆・訂正したものである。2005年、高木はこの作及び後の平和活動を評価されエイボン女性大賞を受賞した。 『かわいそうなぞう』は土家由岐雄作のノンフィクション童話。絵本や紙芝居として出版されている。 第二次世界大戦中の上野動物園で象を餓死させた実話を元にした小学校低学年向けの童話である。童話集の『愛の学校・二年生』(1951年東洋書館)に収録・発表された後、1970年8月、金の星社より「おはなしノンフィクション絵本」として出版され、1998年に100万部を達成。2005年までの発行部数はFX を超える。 1970年から2002年の32年に渡り、毎年8月15日の終戦記念日にTBSラジオ「秋山ちえ子の談話室」で秋山ちえ子により朗読された。また、学校図書社と教育出版社が小学校2年生向けの国語教科書に採用し、1974年から1986年まで使用された事で広く知られている。 第二次世界大戦が激しくなり、東京・上野動物園では空襲で檻が破壊されて猛獣が街に逃げ出したら大変だということで、猛獣を殺すことを決定する。ライオンや熊が殺され、残すは象のジョン、トンキー、ワンリーだけになる。 象に毒の入った餌を与えるが、象たちはFX 取引 を吐き出してしまい、その後は毒餌を食べないため殺すことができない。毒を注射しようにも針が折れて注射が出来ないため、餌や水を与えるのをやめ餓死するのを待つことにする。象たちは餌をもらうために必死に芸をしたりするが、ジョン、ワンリー、トンキーの順に餓死していく。 戦前、上野動物園(東京)・天王寺動物園(大阪)・東山動物園(名古屋)などでは、それぞれ多くの動物が飼育されていた。しかし戦争の激化により、空襲時に逃げ出したら危険ということで(実際に1941年のベオグラード空襲の際には動物園から都市に猛獣が逃げ出した事件が発生している。また、「猛獣が逃げた」との流言により避難民がパニックを起こす可能性も予想された。)、陸軍の判断に基づき地方行政から猛獣たちを殺処分する命令が出された。本作を含め、多くの物語で直接の軍の命令とされているが正確ではない[1]。実際に殺処分命令を出したのは、初代東京都長官となった内務官僚・大達茂雄であった。 各動物園の職員達は反対したが、食糧事情の悪化などもあり、結局戦争が終わったときには殆どの動物は死を迎えていた[2]。 東京が都政を敷いて間もない昭和18年(1943年)の出来事であり、東京都として最初期に行った動物園行政が飼育動物の殺処分命令であった。上野動物園にはこの象舎のすぐそばに動物慰霊碑が建立され、この戦争で命を落とした動物たちに対しての慰霊の行事は、終戦後60年余を経た2008年現在も続いている。 熊谷が空襲被害を受けたよくFX はわかっておらず、埼玉県の県庁都市として間違えられた(実際の県庁都市は浦和市。ただし、明治時代初期に3年間という短命ながら存在していた熊谷県時代は県庁所在地であった)説、大規模軍需工場があると思い込まれた(そのような事実は無い)説などが推測されている。 焼夷集束弾や普通爆弾などによりまず市周辺部より、ついで中心部の順で無差別爆撃を受けた。この逃げ道を火の海にして退路を塞ぐ攻撃法は日本本土空襲でのアメリカ軍の常套手段であった(確実に市民を殺傷するため)。 3月19日はアメリカ海軍のマーク・ミッチャー提督の第58機動部隊約350機、7月両日はウィリアム・ハルゼー提督率いる第38機動部隊約950機による空襲。日本側は高角砲や艦艇の対空射撃により激しく抵抗を行ったがほぼ全ての艦が着底、航行不能などの被害を受けた。 3月19日の第58機動部隊に対しては松山基地の三四三航空隊が呉を攻撃中のアメリカ海軍艦載機を迎撃し58機(アメリカ海軍側の記録では14機)を撃墜した。更に銀河がアメリカ海軍空母フランクリンを攻撃し大破させ、神風特攻により護衛空母及び駆逐艦1隻に損傷を与えた。7月24日の空襲では三四三航空隊が再び迎撃に向かい16機を撃墜。 一連の戦いで日本の乗組員約780人が戦死、約2000人が戦傷した。上記のように連合国軍にも大きな損失を与えたものの、工廠施設も破壊され呉軍港は母港としての機能を完全に失った。 第二次世界大戦において日本軍が劣勢になるなか、昭和19年にはアメリカ軍による本土空襲が本格化し、東京大空襲をはじめ日本の主要都市は空襲により壊滅していた。甲府盆地は南太平洋から富士山を目標に到達するアメリカ軍機の飛来ルートであったため、頻繁に上空を通過するアメリカ軍機と空襲警報に人々はすっかり慣れきっていたという。5月19日に長野方面へ向かうアメリカ軍機が峡西や峡南区域の山中に空爆を行っており、また同年5月から6月にかけては空爆を予告するビラの撒布が行われていた(警察部の監視により回収)。 昭和20年3月に防空本部が設置され、県知事と甲府市長の指揮下に防空体制を指導。防空壕の建設も通達されたが、甲府盆地では地盤が固く、扇状地では地下水が湧くため困難でもあった。アメリカ軍機が進入してきた際の小規模な防空訓練も行われており、内容は甲府連隊の高射砲隊と機関銃隊が敵部隊を迎撃するという訓練であった。また、民間防空団体が発足し、各地で防空訓練が行われた。主な訓練内容は「バケツリレーによる消火訓練」であり、この訓練が日常化し、山梨県民は「焼夷弾はバケツで消せる」「銃後の守りは完璧」と確信したという。 空襲前日の山梨日日新聞には「背後に山を負った甲府だ。(中略)城郭を築かなかった武田信玄も躑躅が崎背後の自然の天嶮には人間と同様大きな信頼感を持ったものらしい。その自然の山岳形象が、敵機爆撃にも相当の味方として備えていることは一つの強みであると言える」と掲載された。また、空襲の前日まで甲府市上空にはB-29の編隊が幾度と無く東へと飛び去る姿が目撃されている。制空権はすでにアメリカが握っており、東京大空襲から逃れてきた民間人が多数甲府市に疎開して避難していたこともあり、当時の甲府市民の多くは「アメリカ軍は甲府の上空を通過するだけ。ただの通り道である以上、空襲は無いだろう」と判断していたという。 空襲当日の天候は晴れ。空襲前の気温は22度であった。 以下は空襲の流れ。 なお、甲府市郊外の玉穂飛行場(現在の甲斐市(旧竜王町))には陸軍が駐屯していたが、空襲が始まってから終わるまで、遂に1機の戦闘機も迎撃のために飛び立たず、1発の対空射撃も行われなかったという。ある少尉の残した手記には、「生地獄であると知りつつも、あまりの見事さに見とれるほど」「これが破滅の美」と書き残されている。また、栄和高等女学校にも陸軍兵士が駐屯していたが、銃を持ってうろうろするだけであったり、中には機関銃や小銃を棄てて逃げ出す兵士もいたという。 また、民間で行われた防空訓練も全くと言っていいほど役に立っていなかった。午前3時10分には陸軍部隊6名が、午前4時には陸軍部隊40名が消火に駆けつけた。 なお、市街地の殆どが灰燼に帰した中、連隊司令部や兵舎は無傷であったが、消火に駆けつけた日本兵がごく僅かであり、時間も掛かったことから、軍が本気で市民を守ろうとしたのかどうかには疑問が残る。