■暴落

焦土と化した名古屋の焼け跡地に縄張りをして道路や公園予定地の地権者を説得して回り、まず道路ひたすら造り続けることとし、市域2割方を道路にした。当然周囲の反感も買うこととなったが、揺るぎなかった信念をもって実行に移される。そのほか、市内の中心部に約280軒あった寺と寺が抱える墓地、墓碑19万基をすべて1カ所に集団移転させた。やはりさすがにこれだけの墓を移転することは物議を醸し苦情が相次ぐが地道に説得し、結局事業を実施する。区画整理は440ヘクタール規模で着手したが1949年にはほぼ9割がた仮換地指定を終えている。戦災復興事業の中で道路整備と並んで相当な労力精神力を必要とした平和公園建設事業を、戦争でなくなった人の霊を弔う戦災復興の記念碑として広大な墓地公園を完成させ、さらにまた予定していた平和堂の建設が資金難で未完成のままだったため、自身の退職金の大半を寄付して完成させた。 今は名古屋の名物ともなっている2本の名古屋100メートル道路については、防火帯としての計画であったがとくに街の中心を東西南北に縦断し名古屋市を四分割するため、「街の真ん中に飛行場でも造るつもりか。」 と揶揄され、さらに逗子 不動産 に名古屋刑務所が存在し、政府は復興事業の再検討と縮小を要求するといった最も批判を浴びた構想でもあったが田淵は今後あらゆる災害が起きた際こうした道路は是非とも必要であるといった防災の見地から強く主張し、また中心部と名古屋港を結ぶ道路を完備するべきだと考えていた。結果ねばり強く政府と交渉し、刑務所は現在の三好町に移転させ、100メートル道路を完成させる。 広島市の場合は都市計画課の職員はほとんどが湘南 不動産 で死去したが、自転車で登庁途中チェーンが切れて遅刻となった竹重貞蔵課長が奇跡的に生き残って、丹下健三らが計画に携わるまでは一人で計画立案する。 竹重は、往時の大田川河岸沿いに建物が密集していたので、河岸緑地を計画し、河川沿いを占拠していた罹災者には別途再開発住宅を提供し、移転させる案を提示した。これは1945年に早くも都市計画決定され、このとき川に沿ってかなり広い敷地が確保される。今日では沿川にはカフェが並ぶまでの空間になったが、実際は1970年代に入って当時の中国地方建設局太田川工事事務所が東京工業大学の中村良夫研究室に基町地区の河川環境整備を依頼するまで一切の整備が成されておらず、30年以上眠ったままだった。 復興計画案のうち、土地利用計画と公園立地、道路計画は復興院が派遣した丹下健三と武基雄を中心とする建築家スタッフが計画したものである。丹下スタッフは広島市を主に担当し浅田孝、大谷幸夫、そして石川栄耀の息子石川充が参加し、武スタッフは呉市を主に担当し大林新、安田臣、吉阪隆正が参加した。スタッフは広島市は1946年の夏に、呉市は秋に現地入りし、資料不足の中で調査分析し、報告書と都市計画図が作成された。広島市の計画は、かつて軍都としての広島の歩みを分析したうえで山陽工業地帯の中核都市として再生させるという展望を示し、そのための計画としていた。道路計画については、すでに市が戦中に防火帯として空地化している跡地に計画している幅員100mの道路の中心に位置する中島川三角地を官公庁街にしこれに向かって、駅前から市街地を斜めに抜ける幹線道路を計画した。土地利用計画では特別地区として官公庁と文教と港湾をたて、工業地区として海岸線に重化学工業地帯と海岸公園を配し、商業地区は先の官公庁街を囲む中央商業と周辺商業の地区に区分し市経済の効率化を図り、住居地区には中心となる地区を武蔵野タワーズ しているが、案は市の有力者からなる審議会では幹線道路は認められず、また三角地は官公庁街でなく公園に設定されたなどのほかは概ね採用となる。 また丹下らは、暁設計なる建築設計事務所を広島での作業拠点とした。この事務所は帝国軍暁部隊の建築技術将校だった村田正、柴田実らが1946年の春ごろから広島に設立。焼け残った福屋デパートの1室を借りてまちづくりに参画する。この事務所に、横浜高工から逓信省に入り、後満州国郵政総局で建築設計に従事していた河内義就が参加し、バラック建の朝日新聞広島支局にレンガのチムニー設置、築地小劇場をモデルに児童文化会館の舞台を改造、市民病院に厚さ4センチのコンクリート庇に挑戦したりした。この後建築設計事務所は昭和23年まで数社でき、同年広島建築家協会が発足する。また広島市の建築技師藤本初夫は壁式コンクリートに挑戦し、昭和町平和アパートを竣工させるなど、徐々に活況ずく。 その間広島市は都市武蔵野マンション に対して国の特段の支援を仰ぐため、木原七郎、浜井信三市長が国庫補助と財政援助を占領軍総司令官や政府、国会にたいして要請したが成果なく、1949年に特別立法の誓願運動を展開し、広島平和記念都市建設法を制定させる。第3条には国と地方公共団体が都市建設事業に対してできる限りの援助を行うとし、第4条で国有財産法第28条の規定にかかわらず費用を負担する自治体(広島市)に対し普通財産の譲与することができると定め、特段措置を国に義務付ける結果となる。 これを受け国は旧軍用地を小学校や病院等の用地として約34.5ヘクタールを無償譲与し、1949年度に補正予算で補助金を追加し、1950年度予算で不動産担保ローン のそれと別枠で予算確保している。これに対し、ほかの戦災都市の補助率が引き下げられたため国に対し講義がだされ、もとの率にもどされている。 また国直轄事業として100メートル広幅員道路の平和大橋、西平和大橋がかけられている。この100メートル道路は、当初当時の渡辺市長は選挙公約として市営住宅建設を打ち出し当選したのが助役の説得で翻意させた。また、並木緑地形成は市民の参加で実現したものである。 平和大橋、西平和大橋は1950年、広島市が米国対日援助見返仕資金特別会計を活用して計画。当時発足したばかりであった建設省の中国地方建設局が受託施工することになる。橋の名称は市が街路名と共に一般公募したもので、マンスリーマンション のデザインは建設省や県内の行政と学識者等で構成される「平和大橋・西平和大橋高覧デザイン研究協議会」で検討され、のちイサム・ノグチに依頼される。橋の形式はGHQの指示によって4径間の単純桁形式とされ、津田沼一戸建て は、ノグチから案が届く前に着工される。高覧の図面化には東京大学丹下健三研究室が協力、1951年ノグチが来日した折、ベニヤ板を使って原寸模型が切り出され、実物大の模型を制作して現地に設置し、1953年建設省直営で施工され竣工した。コンクリート型枠製作には1本の木材を2つに割り中をカンナ数種類で仕上げる高度技術を要し、半円球部分は造船所に協力してもらったという。施工に当たっては高欄間柱と手すりはプレキャスト製作し、床版に立てこんで鉄筋を緊結し場所打ちコンクリートで接合している。 明治時代以降、東北地方の中心都市として大日本帝国陸軍の様々な施設が置かれていた仙台は、太平洋戦争末期に、アメリカ軍から度々空襲を受けていた。宮城県内各地でも、沿岸部の港湾施設や都市、および内陸部の都市や鉱山施設が爆撃を受けていた。 1945年(昭和20年)7月9日、アメリカ軍第20航空軍所属の第58爆撃飛行団に出撃命令が出され、午後4時3分(日本時間)B-29爆撃機131機がテニアン西飛行場を離陸し出撃した。不具合で引き返したものを除く123機が仙台に到達した。 7月10日午前0時3分(空襲警報発令は午前0時5分)、高度約10,000フィート(約3,000メートル)より、2、3機から5機くらいの編成で25波に分かれ、仙台市内を約2時間にわたって空襲した。焼夷弾10,961発による絨毯爆撃と高性能爆弾8個により、仙台市中心部は焦土と化した。「仙台駅から西公園が見えるようになった」との体験談が語られる。死者1066名(仙台市に籍を置き届出のあった人数、1973(昭和48)年最終調べ)、被災人口57,321人(人口の約26%)、被災戸数11.933戸、被災面積5平方キロメートル(市街地の17%)。 市街地の他、仙台城二の丸にあった第二師団も被害を受けた。一方、陸軍省苦竹造兵廠など、苦竹にあった軍需工場地区(現在の陸上自衛隊仙台駐屯地)は空襲を受けなかった。 アメリカ軍の損失は、滑走路で炎上した1機(全乗員脱出)のみであった。しかし、東北軍管区司令部は「撃墜5 撃破12」という虚偽の戦果を発表した。