■保険繋ぎ

仙台市電は市中心部の多くの路線で被害を受けたが、車庫にあった車両に被害はなく、翌11日から折り返し運転を行い、戦災復興の一翼を担った。終戦後の8月20日に全線復旧した。 仙台市の復興事業については宮城県が戦後一早く復興計画を練っていた。ところが政府が1945年11月に「戦災復興計画の基本方針」を閣議決定し、1946年2月に「戦災復興事業法」を制定し全国被災都市162中の115都市を国庫補助復興事業都市に指定する。この事により仙台市の復興事業を仙台市自身が行うことに決まり、県が行っていた事業計画などを引き継ぎ作業に入った。 1946年4月に市議会議員全員44名と学識経験者20名の総員64名から構成される「仙台市戦災復興委員会」が設けられた。更にカリン ナラ チーク 無垢フローリング メープル ウォールナット 無垢材 の委員の中から23名が「復興常任委員」に選出され、計画完遂のために常時参画できるようになった。5月に復興事業の実施機関として復興局が新設され、都市計画街路、公園緑地は、復興委員会で検討の結果8月にまとまった。この最終案は11月に戦災復興院の許可を得て決定し、具体的な復興事業がスタートした。 復興計画は、当初戦災を受けた仙台市の中心部、川内地区、米ヶ袋地区を合わせて423.5haを土地区画整理として行う計画だった。しかし川内地区が米軍に接収された他、仙台駅の東側を新寺小路都市改造事業に移すなどの変更があり、291.1haについて事業が施行された。 手法土地区画整理事業として行う、区域内の地権者25%の土地の提供を受け(25%の減歩)区域内の道路、公園緑地を整備する事業だった。1961年3月に15年を要してほぼ工事関係が完了した。1977年10月に30年を要して換地などの生産事務の精算金などの徴収、沖縄旅行 の一部を除き、全て完了した。これによって全国の復興事業を実施した102市の中で屈指の成果を上げて戦災事業は完了し街の面目が一新された。 大山口列車空襲事件(だいせんぐちれっしゃくうしゅうじけん)は、第二次世界大戦末期の昭和20年(1945年)7月28日午前8時ごろ、鳥取県西伯郡所子村(現在の大山町)の山陰本線大山口駅東方約600m地点で発生した、満員状態の非武装(傷病兵輸送の赤十字標章付の車輌も含む)列車に対してアメリカ軍の艦載機3機が機銃掃射を加え、多数の死傷者が出た事件である。日本の鉄道に対する列車銃撃空襲事件としては湯の花トンネル列車銃撃事件に次ぐ大規模なものであった。 鳥取発出雲今市(現在の出雲市)行きの下り第809列車は蒸気機関車C5131牽引、次位に廻送機関車48690、客車11両の編成であった。この列車の前2両は増結された病客車(この車輌に赤十字標章が大きく描かれていた)で、呉海軍病院三朝分院を転退院する軍・工廠関係者と付添いの衛生兵、日赤救護看護婦が乗り、他の一般客車は、チ号演習に動員された国民義勇隊、勤労学徒、軍需工場徴用者、一般乗客等、合計約1200人で超満員であった。 第809列車が午前7時15分、5分遅れで大山口駅に到着した際、上空を米海軍艦載機が旋回しているのを駅長が確認し、第809列車は駅の東側600mにある上野集落付近の切り割り区間に待避。その後一度駅に戻って全乗客の3分の1にあたる約400人を降ろしたが、再度上空に敵機約40機が現れたため先程の切り割り区間に退避した直後、一斉に機銃掃射並びにロケット弾にて約30分間連続攻撃を受けた。被害は編成前部に集中。本務機関車と廻送機関車が銃弾により小損害を受け乗務員に被害はなかったものの、病客車を含む客車の前3両には機銃とロケット弾による攻撃が集中し、死者44名、負傷者31名以上という甚大な被害を受けた。特に傷病兵を乗せた車輌には赤十字標章が書かれていたにもかかわらず米軍機は執拗に攻撃を繰り返したために、遺族被害者をはじめ現在でも批判が多くある。 また近隣の上野集落の民家も被災し、全半焼3軒という被害も出している。 その後、列車は車内の死傷者を除いて乗客のすべてを付近の森陰に降車待避させ、高速バス 格安 高速バス 大阪 高速バス 京都 高速バス 神戸 高速バス 東京 高速バス 関西 夜行バス 格安 夜行バス 大阪 夜行バス 京都 夜行バス 神戸 夜行バス 東京 夜行バス 関西 の損害のため全車両を牽引できなくなったため、後5両を現場に留置して前6両を牽引、大山口駅を約2時間遅れで発車した。伯耆大山駅到着後に再び空襲の危険が迫ったため淀江駅方向へ後退、壷瓶山(標高114m)の麓にある日吉神社前に退避。欠水したため救援機関車を要求し約3時間半の遅れで午前11時20分に米子駅に到着した。 平成3年の47周忌の合同慰霊祭を機に大山口列車空襲被災者の会がつくられ、翌年には大山口駅西側に慰霊碑が建立され、現在でも被災者・遺族、地元の住民が主体となって事件当日には慰霊祭が行われている。 現場となった切り割り区間は高速バス 夜行バス 高速バス 夜行バス しており、コンクリートで作られた壁面には銃弾の跡が生々しく残っているという。 太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔(たいへいようせんぜんこくせんさいとしくうばくしぼつしゃいれいとう)は、兵庫県姫路市の手柄山にある無宗教の慰霊塔。地中に突き立てた刀は不戦の誓いを表し、太平洋戦争の折に空爆などで被災した都市の犠牲者を追悼するためにつくられた。 1947年(昭和22年)1月、当時の姫路市長・石見元秀が全国で被災した113都市(東京都と112市町)に呼びかけ、全国戦災都市連盟(現在の財団法人太平洋戦全国空爆犠牲者慰霊協会)が結成された。1952年(昭和27年)4月、恒久平和確立の象徴として慰霊碑建設が提案され、同年7月に建立場所として姫路市の手柄山を選定した。 1953年(昭和28年)5月に着工し、1956年(昭和31年)10月26日に竣工した。 設計は高谷隆太郎で、建設は寄付金によりまかなわれ、費用は当時の金額で8,000万円である。 現在、財団法人太平洋戦全国空爆犠牲者慰霊協会により維持、管理されており、毎年10月26日、太平洋戦全国空爆犠牲者追悼平和祈念式が開かれている。 1943年11月25日、アメリカ陸軍の第14航空隊第11爆撃中隊に属する8機と米中混成軍団第1大隊第2中隊の6機、合計14機のB-25は、第14航空隊第23戦闘大隊のP-51及びP-38各8機の援護の下、中国遂川基地を飛び立ち、台湾の新竹飛行場を爆撃、日本軍機52機に損害を与える台湾に対する空襲を行った。これより以前、ロシア義勇軍と中国空軍第1大隊による松山飛行場に対する攻撃を1938年2月23日に実施しているが、いずれも小規模且つ軍事拠点を目標にしたのものであった。 アメリカ軍による本格的な台湾空襲は第二次世界大戦末期、アメリカ軍がフィリピンのスービック湾を奪取した後の1944年10月12日に始まり、定期便のように来襲し、屏東や虎尾の製糖アルコール生成工場、高雄港、岡山航空廠を目標にした。そして台北もアメリカ軍の空襲範囲に含まれ、頻繁な攻撃を受けるようになった。