■ポジション
アメリカ軍による台北空襲で最も被害が大きかったのが1945年5月31日の空襲である。フィリピンスービック湾に駐留するアメリカ第5航空隊は、四航空大隊の合計117機のB-24を派遣しこの任務に当たらせた。駐菲アメリカ空軍は3機のB-24を一編隊とし、5月31日の午前10時より午後1時まで台北を目標とした空襲を加えた。
1944年10月10日より始まった台湾沖航空戦の結果、当初台湾に230機あった戦闘機はほぼ壊滅状態であり、地上に残された対空砲火施設のあった台北城内(現在の台北市忠孝西路、中華路、愛国西路、中山南路に囲繞された地域)、城外の台湾歩兵第一連隊、野砲兵第48連隊(現在の中正紀念堂)などの軍事施設を初め、台湾総督府を含む、栄町、京町、文武町、書院町、明石町、旭町などの主要官庁などが3,800発の強力爆弾の被害を受けた。
この空襲において最も大きな物的被害を蒙ったのは台湾総督府である。総督府は空襲を避けるために偽装が施されていたが、正面に命中弾を受け建造物は傾斜、及び火災に見舞われ使用不可能となった。このほか総務長官官邸、鉄道ホテル、総督府図書館、台湾電力株式会社、台湾軍司令部、台北帝国大学付属病院、台北駅、高等裁判所、度量衡所などの官庁が程度の差こそあれ被害を受けている。
台北大空襲市?着弾略図
中国語版より台北大空襲はアメリカ軍は台北城内の軍事・経済活動の拠点を主要目標としたとしているが、少なからずの一般市民の住宅への被害も認められる。当時市民の防空施設であった台北市双連地区の静修女学校(現在の私立天主教静修女子中学校)に付属するキリスト教教会のほか、龍山寺の正殿及び左廊も爆撃され、塑像の「釋迦出山」も戦災に巻き込まれている。
台北大空襲での台北市民の死傷者は、当日死亡した者が3,000余、それまでの
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軍の空襲における全台湾での死者に匹敵するものであった。この他数万の負傷者と多くの現像物への被害があった。
この空襲により零式戦闘機、紫電、雷電、疾風などの戦闘機及び92式重機関銃、93式重機関銃、96式高射砲、88式75mm高射砲、150mm高射砲などの防空体制が機能不全に陥ったことが判明、その後は台湾総督府により各種学校に対する集団疎開及び防空訓練が推進されることになった。
平空襲(たいらくうしゅう)は、福島県平市(現いわき市平)を襲った空襲の総称である。
第1回目の平空襲は、昭和20年3月10日東京大空襲帰りのB-29から焼夷弾が落とされ、平市街の材木町、鍛治町、研町、紺屋町、梅本一帯が焼かれた。死者12名。家屋500戸以上が炎上。
第2回目の平空襲は、昭和20年7月26日平第一国民学校(現平一小)に5トン爆弾が落とされ、お城山一帯が破壊された。死者教員3名。家屋1500個以上が破壊。
第3回目の平空襲は、昭和20年。
筑紫駅列車空襲事件(ちくしえきれっしゃくうしゅうじけん)は、第二次世界大戦末期の昭和20年(1945年)8月8日午前に、福岡県筑紫郡(現、筑紫野市)内の西日本鉄道大牟田線筑紫駅付近で発生した空襲事件である。非武装の列車数本に対して
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軍の戦闘機複数が機銃掃射を加え、多数の死傷者が発生した。
8月8日、西鉄福岡9時40分発の大牟田行き下り普通列車(100形を使用)は途中、入営者を中心に200人近い客を載せ、ほぼ満員状態であった。途中、空襲警報発令のために1時間停車、筑紫駅には午前11時頃に差し掛かった。ほぼ同じ頃、久留米方面から福岡方面へ向かう上り列車(200形を使用)も筑紫駅に差し掛かっていた。
この2列車が、米軍のP-51戦闘機による機銃掃射を受けた。筑紫駅周辺は田園地帯であり、航空機による攻撃に対して無防備であった。両列車、合わせて、死者の数は64名(これより多いとする証言もあり)、負傷者数は100余名という甚大な被害を受けた。
なお、この日、宮の陣駅でも列車が機銃掃射を受け、数名が負傷している。
1981年に、空襲時に筑紫駅のプラットホーム上にあった待合室が、筑紫野市役所筑紫出張所敷地内に移築された。 現在も、保存されている。
千葉空襲(ちばくうしゅう)は、第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた千葉市に対する空襲のうち、1945年(昭和20年)6月10日と7月6日、7月7日のものを一般的に指す。戦後半世紀経過し、被災者の高齢化や歴史の風化などによって、
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のことを知る人は減少している。
銚子空襲(ちょうしくうしゅう)は、第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた千葉県銚子市に対する空襲のうち、1945年(昭和20年)7月19日に行われた空襲である。ボーイングB29・91機の編隊によって攻撃され、1181名の死傷者が出た。
当時のアメリカ軍の資料によると銚子空襲は、東京(首都)への食料供給の重要拠点の壊滅を狙い空襲が加えられた。
銚子をはじめとする太平洋沿岸の港町は、硫黄島から飛来したP-51や空母から発艦したF4Uコルセアによって機銃掃射を受けており、その様子は実写フィルムが残されており、見ることができる。
土崎大空襲(つちざきだいくうしゅう)とは第二次世界大戦末期の1945年8月14日夜間から翌15日未明まで、秋田県秋田市土崎港(現、秋田港)周辺を標的としたアメリカ軍によって行われた大規模空襲である。
秋田県秋田市にある
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周辺には現在でも採掘可能な油田が存在しており、大規模な製油所(現、新日本石油秋田製油槽所)が存在しており、終戦間際になっても空襲に晒される事無く、無傷のままであった。土崎大空襲はこの製油所の破壊を目的としたものであった。
空襲は1945年8月14日22:30-翌15日3:30頃まで続き、土崎港のみならず、周辺の土崎地区にも被害は及び、これによる死者は250人以上とされている。
なお、土崎大空襲は太平洋戦争最後の空襲の一つ(他に大阪、小田原、熊谷、伊勢崎市、岩国、光で空襲が行われた)として数えられており、また、秋田県で唯一の大規模空襲であった。
西洋では古くから用いられた手段で、フランスでの市民蜂起「パリ・コミューン」においてフランス政府が上空より気球で撒いたものが最初といわれている。 第一次世界大戦に飛行機が登場すると更に大量配布が可能となり、相当の効果があるとされ軍事的に重用な宣伝謀略の手段とされた。
第二次世界大戦では、各国とも数千万枚とも数億枚ともいわれる伝単を制作し、散布している。日本軍も上海入りした昭和12年頃(1937年)から外国的なこの方法を採用し、展開を試みた。中国戦線では中国兵向け、南方戦線のインドシナではイギリス軍兵士、オーストラリア軍兵士向けの伝単を散布した。日本軍の初期の伝単は、活字と写真だけで構成されたが効果は芳しくなく、窮余の策でマンガ入りの伝単を中国戦線向けに制作した。このマンガ入りの伝単はイラストが目をひき、中国の一般民衆に読まれた。以降、日本軍の参謀本部の下で伝単づくりは組織的に行われた。
一方、日本上空の制空権を握ったアメリカ軍は、連日B-25爆撃機等で、空襲の目標となる都市に大量の「空襲予告」の宣伝ビラを散布した。これを拾った者は憲兵や警察へ届けることになっていたが、確実な予告ビラであることからリアリティに富み、日本の民衆心理に効果をあげた。また南方戦線では抵抗を続ける日本兵向けに「安全通行証[1]」が撒かれている。
東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう、英語:Bombing of Tokyo in World War II)は、第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた東京に対する一連の大規模な空襲。
東京は1944年11月14日以降に106回の空襲を受けたが「東京大空襲」と言った場合、特に規模が大きい1945年(昭和20年)3月10日に行われた空襲を指すことが多い。太平洋戦争に行われた空襲の中でも、とりわけ民間人に大きな被害を与えた空襲である。
1942年4月18日にアメリカ軍によるドーリットル空襲が行われ、東京にも初の空襲があった。1944年7月、サイパン島などマリアナ群島をアメリカ軍が制圧し、ここが日本本土空襲の基地となった。同年11月24日、軍需工場である北多摩郡武蔵野町(現在の武蔵野市)の中島飛行機工場に対する初の戦略爆撃による空襲が行われた。それ以降、空襲が続き、1945年1月27日には有楽町・銀座地区が標的になり、有楽町駅は民間人の死体であふれた。
この頃の爆撃はレーダー照準を用いた高度精密爆撃であったが、爆撃失敗も多かったため、後に夜間低空爆撃へと変化していった。