■本証

3月10日の大空襲は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているとして、町工場が立ち並ぶ下町の市街地とそこに生活する市民そのものを攻撃対象に行なわれた低高度夜間爆撃である。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団が投入された。 1945年3月9日夜、アメリカ軍編隊が首都圏上空に飛来。22時30分(日本時間)、ラジオにて放送中の軍歌を中断して警戒警報が発令された。同編隊は房総半島沖に退去して行ったため、警戒警報は解除される。ここで軍民双方に大きな油断が生じた。その隙を突いて、9日から10日に日付が変わった直後(午前0時7分)に爆撃が開始された。B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、午前0時7分に深川地区へ初弾が投下され、その後、城東地区にも爆撃が開始された。午前0時20分には浅草地区でも爆撃が開始されている。火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、秒速25m以上、台風並みの暴風が吹き荒れた。 東京大空襲でB-29は日本の貧弱な防空能力を見越し、多くの爆弾投下機から殆どの機銃と弾薬を降ろして通常の約2倍、6tの高性能焼夷弾を搭載していた。投下された爆弾の種類は、この作戦で威力を発揮した集束焼夷弾E46(M69)を中心とする油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾などである。有名なのはゼリー状のガソリンを長さ約50cmの筒状の容器に詰めたナパーム弾である。この形は日本家屋の瓦屋根を突き破って家の中に入り中身を散布するためで、縦にまっすぐ落ちるよう空中で体勢を制御するために吹流しのようなものを付けた。そしてこれらをまとめて一つの束にし、「束ねる」という意味を込めて「クラスター焼夷弾」と呼んだ。投下後空中で散弾のように分散するものである。この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1783tにのぼった。午前2時37分、アメリカ軍機は退去し、空襲警報は解除される。 当夜は強い冬型の気圧配置により強い北西の季節風が吹いており、この強風が以下の条件と重なり、大きな被害をもたらした。 もともと精度の悪い警戒用レーダーのアンテナを風が揺らしたため、ますます精度が悪化していた。これにより、確実な編隊の捕捉と敵の企図の把握が出来ず空襲警報の発令が極端に遅れた(発令されたのは初弾投下8分後の3月10日午前0時15分)。また、敵機はウインドウを大量に散布するなどした。 「低空進入」と呼ばれる飛行法を初めて大規模実戦導入した。まず、先行するパス・ファインダー機が超低空でエレクトロン焼夷弾を投弾して閃光で攻撃区域を本隊に示し、爆撃機編隊も通常よりも低空で侵入して、発火点を包囲するかたちで集束焼夷弾E46を投弾した。狙い撃ちの攻撃で、着弾は高度爆撃よりはるかに精密になった。後続編隊は早い段階で大火災が発生したため、非炎上地域に徐々に爆撃範囲を広げたが、火災による強風で操縦が困難になり、焼夷弾を当初の投下予定地域ではない荒川(当時は荒川放水路)周辺やその外側の足立区や葛飾区、江戸川区の一部にまで広げた。このため、火災範囲は更に拡がった。 折からの北西の季節風(空っ風)が火勢を煽り、延焼を拡げた。 これら複数の要因が重なり被害が拡大した。 この時使用された焼夷弾は日本家屋を標的にした物であり、ドイツがロンドンを空襲した際に不発弾として回収された物を参考に開発された。当時の平均的な構造とは違う作りをしていた。通常、航空爆弾は瞬発または0.02〜0.05秒の遅発信管を取り付けることで、爆発のエネルギーを破壊力の主軸にしている。しかしこれでは木材建築である日本家屋に対してはオーバーキルとなる。そこで爆発力ではなく、燃焼力を主体とした「焼夷弾」が開発され、これが木造を主とする日本家屋を直撃した。 火災から逃れるために、隅田川に架かる多くの橋や燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人もいたが、火災の規模が常識を遥かに超える規模であるため、火災旋風が至る所で発生し、橋や建物に炎が火龍の如く流れ込み、焼死する人や、炎に酸素を奪われ窒息(ちっそく)死する人も多かった。また、オンラインゲーム に逃げ込んだものの、水温が低く凍死する人も多く、翌朝の隅田川は凍死・溺死者で川面が溢れていたという。 水を求めて隅田川から東京湾・江戸川方面へ追い詰められた犠牲者が多いのに対し、逆に内陸部、日光街道・東武伊勢崎線沿いに春日部・古河方面へ脱出した生存者が多い。 3月10日は日露戦争の奉天会戦勝利の記念日であり、陸軍記念日となっていた。日本の戦争継続の気力を削ぐため、敢えてこの記念日が選ばれたとも言う向きもある。(ただし、アメリカ側の資料では陸軍記念日を意識していたことは確認出来ていない。) 3月12日には名古屋大空襲が、3月13-14日に大阪大空襲が、それぞれ実行され多数の死傷者を出している。 空襲をうける東京市街(1945年5月25日のもの。画面中央は現在の東京女学館・日赤医療センター付近、画面下から画面右上に伸びるのは渋谷川、画面下に山手線と東横線の交差と思しきものが見えることから広尾上空と推定される。なお、北方向は写真左側となる)死者数は遺体が早期に引き取られた者は含まれておらず、他に行方不明者も数万人規模で存在することから、実際にはより多い。民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われる。東京の3分の1以上の面積(約41km2)が焼失した。 なお、アメリカ軍の仕事 は撃墜・墜落12機、撃破42機であった。 ちなみにアメリカ軍は関東大震災(1923年)を徹底的に検証、木造住宅が密集する東京の下町が火災被害に遭いやすいことをつきとめ、そこを攻撃目標としている。よって、関東大震災と東京大空襲の被害地域が重なっていることは決して偶然ではない。 その後も東京への空襲は履歴書 なく続けられた。3月10日に次いで被害の大きかったのは5月25日で、470機が来襲し、それまで空襲を受けていなかった山の手が主な対象になった。死傷者は7415人、被害家屋は約22万戸の被害となった。 また当時、東京陸軍刑務所に収容されていた62人のアメリカ人捕虜が焼死している。 3月-5月にかけての空襲で東京市街の50%が焼失した。また、多摩地区の立川、八王子なども空襲の被害を受けている。その後、空襲の矛先は各地方都市に向けられていく。 この東京大空襲を始めるに当たって、アメリカ軍は大規模な実験を行った。日本家屋を模した家を並べて燃やし、どうすればこの家に大きな被害を与えられるかを模索した。家が燃えるところを兵士達は石の箱状の建物の中から、のぞき穴で見守った。この家は室内まで精巧に作ってあり、特にこだわったのは畳で、日系人の多いハワイからわざわざ取り寄せたという。これらの実験によってクラスター焼夷弾も開発され、本物の日本家屋に大きな被害を与えていった。 防空戦に出撃した機体の一つ三式戦闘機「飛燕」アメリカ・イギリスに比べて日本軍はまともなレーダー施設を持たなかったため、事前に空襲を察知する事が出来ず、なお性能に劣る日本機ではB-29の高度まで上昇するのに時間を要するため(零戦21型では1万mまで上昇するのに1時間を要した)迎撃は極めて困難だった。B-29の防弾タンクは頑強で、日本機の機銃が多少当たった程度では撃墜する事は難しく、B-29の優れた迎撃システムと訓練された編隊飛行により接近すら困難だった。11月24日の東京空襲では銃器を外し軽くした機体でB-29に体当たり攻撃を決行し1機を撃墜している。陸軍航空部隊は、対B−29体当たりを行うため震天制空隊を結成し、「空の特攻」を各地の空襲で敢行した。3月10日の大空襲では、東京近郊の飛行場に配備されていた夜間戦闘機隊が迎撃に向かい、猛火による猛烈な上昇気流と煙により飛行が困難を極める中で、陸軍の高射砲部隊と合わせて12機を撃墜、42機を撃破する戦果を挙げた。[1]上記の要因に加え、パイロットの質が低下し、夜間飛行ができる技量を持ったパイロットが僅かしかいなかった事も迎撃を困難にさせた。5月25日に464機のB-29が来襲した際は、26機撃墜、86機撃破と本土空襲の中で最も大きな損害を与えた。[2] 東京大空襲を指揮したカ