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これ以降も、日本側の産業基盤を破壊し、また戦意を挫くため、全国各地で空襲が行なわれ、その結果多くの一般市民が犠牲となった。建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃であるが、実際には多数の民間人(非戦闘員)が犠牲になっており、戦争犯罪ではないかとの指摘も強い。しかし日本政府は、サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を放棄している。 戦後1964年(昭和39年)に日本政府は、日本本土爆撃を含む対日無差別爆撃を指揮したルメイに対し、航空自衛隊の育成に貢献したとの理由で勲一等旭日章を授与した。これには授与当時は遺族や反戦左翼から、近年では戦勝国政府に対する極端な擦り寄りではないかと言う右翼からの批判の声もある。が、真珠湾空襲に大きく関わった当時参議院議員・元航空幕僚長源田実は当時この勲章授与を賞賛した。なお、源田はこれに先立ち米国からリージョン・オブ・メリット勲章の叙勲を受けている。これをもって日米両国が真珠湾攻撃と日本本土空襲の責任者を相互免責し、日米同盟の強化を図ったとする見方がある。 ルメイは後年、「自分たちが負けていたら、自分は戦犯として裁かれていた」と述べている。ルメイの前任者ハンセル少将は高高度からの軍事目標への精密爆撃にこだわった故に解任されている。無差別戦略爆撃は、原爆投下も含めてアメリカ大統領たちの選択であったと言ってよい。もっとも、同じアメリカ軍内でもチェスター・W・ニミッツ元帥などはルメイをあからさまに批判しており評価は分かれている[要出典]。 3月10日の空襲の惨状は、警視総監より撮影の任務を受けた、警視庁の石川光陽によって、僅か33枚の写真に残された(上の画像参照)。それらは戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から引き渡すよう命令が下るが、石川はこれを拒否し自宅の庭に埋めて保管したという。この33枚の写真は、東京大空襲の悲惨さを伝える大切な資料となっている(石川自身、本当はこのような写真は撮りたくないと言っていた)。なお、石川はほかにも1942年のドーリットル空襲から1945年5月25日の空襲まで記録写真を撮影しており、東京の空襲全体では撮影枚数は600枚を越える。 戦災により亡くなられた方々の碑、台東区浅草七丁目一番身元不明の犠牲者の遺骨は関東大震災の犠牲者を祀る震災慰霊堂に合わせて納められ、現在は東京都慰霊堂になっている。慰霊堂では毎年3月10日に追悼行事が行われているほか、隣接する東京都復興記念館に関東大震災及び東京大空襲についての展示がある。東京都は1990年(平成2年)、空襲犠牲者を追悼し平和を願うことを目的として、3月10日を「東京都平和の日」とすることを条例で定めた。一連の空襲によるリサイクルショップ 神戸 な犠牲者数は不明である。東京都では墨田区の横網町公園に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」を設置し、遺族などからの申し出により判明した分の犠牲者名簿(1942-1945年の空襲犠牲者)を納めている。 東京の市街地でも空襲を免れた区域がある。 丸の内付近では東京府庁(東京都庁)と東京駅が空襲を受けたが、空襲を免れた区域も多い。これは占領後の軍施設に使用する予定の第一生命館や明治生命館などがあった為と言う。 築地付近が空襲を受けなかったのは、アメリカ聖公会の建てた聖路加国際病院があったからだとも言われる。 中央区の佃島・月島地区も戦火を免れ、現在も戦前からの古い木造長屋が残っている。3月10日の下町空襲で壊滅状態となった旧・深川区(現在の江東区)とは晴海運河を挟んで明暗が分かれた形となった。 墨田区京島地区・甚大な被害を受けた墨田区中央部の中で奇跡的に延焼を免れた一帯。空襲以前にも関東大震災の際にも延焼を免れ、ほぼ大正初期の路地構成や建物の面影を今に残す、下町一帯の中では希有な地域である。但し「生き残った」ことにより、自動車も通れない明治大正期の極狭路地が迷路のように走る同地帯は、現在では防災面で深刻な問題のある地域として懸念されている。 ロックフェラーカタログギフト の寄付で建てられた図書館のある東京帝国大学付近も空襲は受けていない。 神田には救世軍本営があるため被害を受けなかったとも言われるが定かではない。また神保町古書店街の蔵書の消失を恐れた為という俗説もあるが、アメリカ軍は名古屋大空襲(5月14日の空襲で名古屋城が焼失)やドレスデン爆撃など文化財の破壊を意識せず(むしろ好んで)行っていることから信憑性は低い。なお日本正教会のニコライ堂(東京復活大聖堂)およびその関連施設も空襲を免れ現代に残っている。遺体の収容場所が足りなくなった事による本郷の町会の要請により、大聖堂には一時的に遺体が収容された[3]。 皇居(宮城)は対象から外されていたが、5月25日の空襲では類焼により明治宮殿(明治憲法の発布式が行われた建物)が炎上した。このため、松平恒雄宮内大臣が責任を取って辞任している。 大空襲から62年が経過した2007年3月9日、「東京空襲犠牲者遺族会」の被災者・犠牲者の遺族112人(平均年齢74歳)が、日本政府に対して謝罪および総額12億3200万円の損害賠償を求めて東京地方裁判所に集団提訴した。空襲による民間の被害者が集団となって国に責任を問うのは初めて。目的は、旧軍人・軍属が国家補償を受けているのに対して国家総動員法に寄って動員された民間人は補償が行なわれていないことを理由に、「東京空襲が国際法違反の無差別じゅうたん爆撃であったことを裁判所に認めさせ、誤った国策により戦争を開始した政府の責任を追及する」ことである。[1](東京大空襲訴訟)。 1945年7月4日の深夜、約100機の米軍のB-29が徳島市の上空に飛来し、約2時間30分、焼夷弾を投下し続けた。この空襲により当時の徳島市の約62%が焦土と化し、死者984人、けが人は2000人以上であると伝わる。 1942年(昭和17年)8月、文部省主催による幻の甲子園大会にて徳島商業がヒューマン して本来の甲子園大会の優勝旗とは違う優勝旗を得るも、この戦災により焼失した。 真珠湾攻撃以降一方的な敗退を続け、さらに開戦後の1942年2月24日には、日本海軍の伊17乙型大型潜水艦によるアメリカ本土のカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃を受け、大きな衝撃を受けたアメリカ軍は、士気を高める方策として帝都・東京を爆撃する計画を立てた。 アメリカ陸軍は長距離爆撃機を保有していたものの、その行動半径内に日本を収める基地は無く、ソ連の領土は日ソ中立条約のため、爆撃のための基地使用は行えなかった。また、アメリカ海軍の空母艦載機は航続距離が短く、爆撃のためには空母を日本近海に接近させる必要があり、これは太平洋上で唯一動ける空母機動部隊が危険に晒されることを意味した。そんな中、アメリカ海軍の潜水艦乗組員が「航続距離の長い陸軍の爆撃機を空母から発艦させてはどうだろうか」とルーズベルト大統領に進言。B-25爆撃機を急遽、空母の短い飛行甲板から発進出来るように軽量化を図った。 陸軍爆撃機の空母からのリサイクルトナー は実戦では初であり、この作戦はトップシークレットとされた。また、空母に着艦するのではなく、日本列島を横断して当時、日本軍と戦争中であった中華民国東部に中華民国国軍の誘導信号の下で着陸する予定となった。B-25を搭載する空母はホーネットとされ、エンタープライズが護衛に付くこととなった。 敵艦発見を報じた後、撃沈された日本の特設監視艇1942年4月1日、16機のB-25を搭載した空母ホーネットおよび護衛の巡洋艦3隻、駆逐艦3隻はサンフランシスコを出撃した。途中、エンタープライズと巡洋艦2隻、駆逐艦4隻と合流し、日本へ向かった。攻撃予定日前日の4月17日、米艦船レーダーに映った国籍不明の2隻の漁船を哨戒機で確認中に日本軍特設監視艇、第二十三日東丸に発見された。第二十三日東丸は軽巡ナッシュビルの砲撃で撃沈され(エンタープライズ艦載機の攻撃も受けている)、乗員14人全員は艇と運命を共にした。発艦予定海域手前の予想外の遠距離で日本軍に発見されたことで、爆撃隊は予定より早く空母ホーネットを発艦した。なお、ナッシュビルはもう1隻の監視艇(長渡丸)を撃沈している。 ジミー・ドーリットル中佐率いるB-25爆撃機16機は東京府東京市、神奈川県川崎市、横須賀市、愛知県名古屋市、三重県四日市市、兵庫県神戸市を爆撃した。