■曲がる

日本側には50人の死者、家屋262戸の被害が出た。また、索敵から帰還した海軍攻撃機を敵機と誤認した陸軍戦闘機の機銃攻撃を受け、海軍軍人1名が死亡。意図的か誤認か定かではないが、国際法上禁止されている非戦闘員に対する攻撃に至った機もあり、掃除を終え、帰ろうとした小学生1名が機銃掃射を受け、死亡した。この学童には「悲運銃撃善士」という戒名が与えられた。また、日本軍の航空機と勘違いし、手を振った学童に対しても機銃掃射したが死者は出なかった。しかしこのうち一機(ホーネットを4番目に発艦した機長エベレット・w・ホームストロム少尉のB-25)は正規の防空戦闘機隊ではないキ61試作機(三式戦闘機飛燕)の追撃をうけ、翼内燃料タンク漏れと旋回銃故障に陥った。 爆撃機は日本列島を横断し、中国東部に着陸した(一機はソ連のウラジオストクに着陸、乗員は抑留された)。乗員は戦死が1名、行方不明が2名、捕虜となったのが8名で、残りはアメリカへ帰還した。大本営はこの被害を隠蔽し、「敵機9機を撃墜。損害軽微」などと発表した。しかし当日は晴天であり、墜落した航空機など市民からは一機も確認されなかったため、大本営の発表に対し『皇軍は空気(9機と空気をかけた駄洒落)を撃墜したのだ』と揶揄するものもいた。一方、日本軍に逮捕された爆撃機搭乗員は、捕虜ではなく都市の無差別爆撃を実施した疑いにより戦争犯罪人とされ一部は処刑され、これに対してアメリカは、『野蛮人の蛮行』として大々的にプロパガンダに利用した。1944年に、処刑された8人の捕虜を描いた反日プロパガンダ劇映画『パープル・ハート』が20世紀フォックスによって製作された。 この攻撃の報に、本土防空を受け持っていた陸軍はもとより海軍の山本五十六聯合艦隊司令長官は衝撃を受けた。真珠湾攻撃の影響を免れたアメリカの空母機動部隊によるハラスメント的な攻撃は1942年前半から既に島嶼部で始まっていたが、本土空襲を受けて山本長官は日本本土の安全確保のため、敵空母殲滅を視野に入れたミッドウェー島攻略作戦の実行を決意したとされる説も見受けられる。 しかし、ミッドウェー作戦は4月16日付大本営海軍部指示にて裁可されているので、これは俗説であり事実と異なる。 陸軍はドーリットル空襲の再発を防ぐため、作戦に利用された淅江省以南の中国軍の飛行場を利用できなくすることを目的として、支那派遣軍に命じて浙?作戦を実施した。作戦は1942年5月中旬から6月にかけて実施され、動員兵力約18万、飛行機3個飛行戦隊により、目的の飛行場の破壊と同地を守る顧祝同の率いる中国第三戦区軍34個師団を打ち破ることに成功する。同作戦は1942年9月30日に終了が発表された。 敗退続きだったアメリカ国内はこの空襲によって沸き立ったが、この予備校 初空襲に対抗して、6月21日には日本海軍の潜水艦が、オレゴン州アストリアにあるスティーブンス海軍基地を砲撃し基地の施設に被害を与えた他、9月には日本海軍の潜水艦の艦載機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度に渡り空襲した(アメリカ本土空襲)。しかし上記のように敗退続きであったアメリカ政府及び軍は、国民への精神的ダメージを配慮してこの空襲の事実を公表しなかった。なおこの空襲は、現在に至るまでアメリカ本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。 本空襲は、帝都防衛のあり塗装工事 を問う大きなきっかけとなった。東部軍司令官の中村孝太郎大将は、陸軍防空学校および高射砲第7連隊の高射機関砲を皇居周辺へ配備し、1942年4月20日に、独立飛行第47中隊を防衛司令官の指揮下に入れ、帝都防空の任に当たらせた。軍では、この目的にかなう飛行場として、成増飛行場を建設した。 ドーリットル空襲の成功はすぐにアメリカ本国でも宣伝されたが、作戦の全容は長く秘匿された。空母ホーネットの名も例外ではなく、記者会見で空襲の成功を発表したルーズベルト大統領は記者団からの「爆撃機はどこから発進したのか?」という質問に対し、「発進地はシャングリラ」と答え、煙に巻いた。シャングリラとは当時の小説で映画化もされた「失われた地平線」に出てくるヒマラヤ付近にあるとされる架空の地名であり、それを知らない記者には冗談が通じず「爆撃機は空母シャングリラから発進」と一部で誤って報道された。 なお、このエピソードがおせち になったものか、後日、本当に空母シャングリラ(CV-38;エセックス級航空母艦の1隻)が就役している。 長岡空襲(ながおかくうしゅう)は、1945年8月1日の日本時間午後10時28分に、アメリカ軍により行われた空襲。新潟県長岡市の中心部市街地を標的に焼夷弾が大量に投下された。これにより中心部市街地の約8割が焼失し、1470人余りが死亡した。罹災戸数は11986戸にも及ぶ。 これを慰霊して平潟神社には長岡市戦災殉難者慰霊塔が建立された。また、長岡駅の駅前に大手通には長岡戦災資料館が開館している。 1945年8月1日にアメリカ軍は日本全国の都市に空襲予告ビラを投下。この予告ビラに記載されている、富山市、八王子市、水戸市の市街地は、予告どおり長岡と同時に空襲されている。しかし、この予告ビラには「長岡」の文字はない。そのため、この予告ビラでは「高岡」と誤記されているのではないかという説がある。なお、富山県高岡市には個別作戦の計画書があったことはわかっているものの、結果的に空襲被害には遭っていない。 名古屋大空襲(なごやだいくうしゅう)は、第二次世界大戦中にアメリカ軍により行われた名古屋に対する空襲のうち、最大といわれる空襲であった1945年(昭和20年)3月12日、若しくは同年5月14日の空襲(名古屋城が焼失した)を指す。また、一例として、名古屋に対する空襲を全て指す場合や、豊川空襲や一宮や半田に対するなど愛知県内の空襲を全て指す場合など、明確な定義はない。 1942年4月18日にアメリカ軍のB-25爆撃機によるドーリットル空襲が行われ、名古屋にも初の空襲があった。 1944年7月、サイパンなどマリアナ諸島をアメリカ軍が制圧し、ここが日本本土に対する空襲の基地となった。同年12月13日、B-29爆撃機90機による、航空機関係の工場であった三菱発動機大幸工場(戦後、のちに三菱重工業名古屋工場、工場撤退後の跡地はナゴヤドーム)に対する初の本格的空襲が行われた。 天候等の関係から思うように爆弾はこの工場に命中せず、その後執拗に爆撃を繰り返し6回のこの工場に対する空襲でやっと壊滅的な打撃を与えた。工場に当たらなかった爆弾は周辺の民家に命中し、多くの民間人が巻き添えになって死亡した。また、この12月13日には、「東洋一の動物園」と謳われた名古屋市東部の東山動物園においても、治安維持を理由に猛獣類が多数処分された。 空爆は、最初は日中に軍関連の工場や名古屋港など軍関係を通常弾での精密爆撃中心に行っていたが、1945年頃からは無差別な焼夷弾による木で出来た家に住む民衆への空爆が始まり、3月頃からは非戦闘員の住む地域へ焼夷弾による深夜の空爆が多くなった。 2月15日には焼夷弾2万発が市中心部の千種の三菱発動機工場周辺に落とされたが、これは3月の空襲に比べればまだまだ小さいものだった。 3月12日の夜、名古屋市の市街地に対する大規模空爆が行われ、市の5%が焼失したとされる。 3月19日の午前2時頃、爆撃機230機(310機との説も)による名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われた。この空襲により一夜にして15万1332人が被災し(死亡826人)、家屋3万9893棟が焼失したとされる。中区、中村区、東区などの市中心部は焼け野原となり、1937年に竣工した国鉄名古屋駅の焼けこげた姿が遠くからでもよく見えたという。 新修名古屋市史第6巻に空襲一覧あり。