■見切り
第二次世界大戦末期、日本は制海権を失い、アメリカ海軍の艦艇の展開を沿岸部にまで許す状態となった。アメリカ海軍第38任務部隊は、北海道南部から登別市沖合へと展開。13隻の空母からのべ3,000機以上もの艦載機を発進させ、留萌市以南の北海道主要都市に無差別爆撃及び機銃掃射を行った。
出撃当日の北海道地方は雲が掛かり視界が悪く、ほとんどが本来の攻撃目標に到達できず、根室市や釧路市といった沿岸の都市を除けば、各機独自の判断で手当たり次第に攻撃を加えている。これらには戦略上全く意味のない農村部も含まれており、一般市民を中心に死者2,000人を超える被害を出した。
また、この空襲を通じて、千島列島から北海道、北海道から本州を結ぶ航路の船舶も攻撃対象となり、多くの船が撃沈または大破の被害を受け、ほとんどの航路が機能を失った。大動脈である青函航路も、全連絡船12隻が被害を受け(8隻沈没、2隻大破炎上、2隻航行不能、352人死亡)、壊滅状態となる。
水島空襲(みずしまくうしゅう)とは、第二次世界大戦末期の1945年6月22日早朝におこったアメリカ軍の爆撃機・ボーイングB29による岡山県倉敷市水島への空襲(戦略爆撃)のことである。
1945年6月22日、グアム島より飛び立ったアメリカ軍の爆撃機B29、110機により、岡山県倉敷市に所在していた水島重工業水島航空機製作所は大空襲を受けた。 投弾時刻は午前8時36分。 この爆撃で、水島航空機製作所は工場の建物10棟が全壊、18棟が半壊、製造中の航空機数十機が破壊され、大工場は全壊という壊滅状況に追い込まれた。 当時、水島重工業水島航空機製作所では、日本海軍の一式陸攻や紫電改を生産しており、米軍が日本の軍需産業を破壊する目的で行った空襲であった。
空襲時は休日であったので、
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は11人、重軽傷者は46人と比較的少なかったが、工場内以外でも農作業中に爆弾や高射砲弾の破片で死傷した民間人もいた。
横浜大空襲(よこはまだいくうしゅう)は、1945年5月29日の昼間に米軍によって横浜市中心地域に対して行われた空襲である。B-29爆撃機517機・P-51戦闘機101機による焼夷弾攻撃で約8千〜1万名の死者を出した。 工業地、商業地、住宅地及びこれらの混在地が、焼夷弾攻撃でどのように燃えていくかのデータを、当時の米空軍は得ておらず、当空襲は、そのデータ収集のための実験的攻撃であった。 米軍は、攻撃目標を東神奈川駅、平沼橋、横浜市役所、お三の宮、大鳥国民学校の5ヶ所を定めて襲撃し、特に被害が甚大だったのは、現在の神奈川区反町、保土ケ谷区星川町、南区真金町地区一帯とされている。 これらのうち星川町が攻撃を受けたのは被服廠があったからである。また横浜市立大鳥小学校は焼け残り、戦後、自殺を図った東條英機元首相を収容した病院となった。 京浜急行電鉄黄金町駅周辺一帯は、東急湘南線の上下線に停車中の電車から空襲警報発令と共に退避中の利用客も被害に遭遇し、多数の焼死体が累々と折り重なった所である。また同線の平沼駅は前年に廃駅となっていたが、焼夷弾によって壊滅的被害を受け、その鉄骨が1999年まで架線柱代わりに残されていた。
白昼の空襲であったことから、厚木航空隊の零戦と雷電や、第十飛行(天翔)師団の屠龍・鐘馗などの戦闘機、高射第一師団(晴兵団)の八八式7.5cm野戦高射砲の活躍でB-29を7機撃墜、175機に損害を与えた。
1942年4月、アメリカ軍による和歌山県に対する初めての空襲が、岩出町(現岩出市)や粉河町(現紀の川市)付近で行われた。
1945年1月9日、東和歌山駅付近を
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された。以降、8月14日までの間に10数回の爆撃が行われた。
また、和歌山県内各地でも、沿岸部の都市の港湾施設や石油関連施設及び内陸部の都市が同様な戦略爆撃や機銃掃射を受けていた。
1945年7月9日17時頃、
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西飛行場を多数のB-29と1機の気象観測機が離陸し出撃した。21時10分、和歌山市全域と紀州沖に警戒警報が出され、ラジオはアメリカ軍機が熊野沖に飛来したことを報じていたものの、なかなか飛来しないため市民はやや油断していたが、22時25分に和歌山県全域に空襲警報が発令された。そして、22時30分には紀州沖海域にも空襲警報が発令された。23時頃、ラジオが「敵爆撃機、約250機、5群に分かれて紀伊水道を北上。淡路島上空で旋回し、1群は南東方面に向かった」と報じた。
アメリカ軍は高度10,200〜11,600フィート(約3,100〜3,500m)より和歌山市上空に進入し、23時36分に河西部の湊河口付近へ照明弾を落として、爆撃を開始した。その後、アメリカ軍は紀ノ川駅周辺を爆撃し、和歌山市駅、ぶらくり丁、和歌山県庁舎付近、和歌山市役所付近などに焼夷弾や油脂弾を落としたため、中心部はほぼ壊滅状態になった。
また、市民は4,000坪の空き地になっていた旧和歌山県庁舎跡(現:汀公園)に避難していたが、そこを火災による熱風が襲ったため、そこだけで748人もの死者を出してしまった。
翌7月10日1時48分に爆撃は終了し、2時30分頃にはB-29は潮岬上空から南方洋上へ去っていった。3時25分に空襲警報は解除された。
アメリカ軍の記録には「和歌山市の建物密集地4平方マイルのうち52.5%を破壊。焼夷弾800.3トンを使用した」とあり、B-29搭乗員の記録にも「何回も大きな爆発と共に、いくつもの白い閃光が発生し、爆撃目標地点上空では乱気流が発生した。20,000フィートにも達する煙の柱をともなう猛烈な火災が全市で発生した」とあり、空襲の凄まじさが伺える。
7月9日の和歌山市の市街地に対する大規模空襲により、和歌山の象徴であった和歌山城が炎上の末に焼失した。城内には国宝の白亜の天守閣をはじめとする多数の国宝や建築物などがあったが、岡口門など数棟を残して全焼した。なお、
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の1958年に和歌山市民の熱意により天守閣は復元されている。
中東戦争(ちゅうとうせんそう)は、ユダヤ人国家イスラエルと周辺アラブ国家との間での戦争である。1948年から1973年までの間に大規模な戦争が4度起こっており、それぞれが第一次〜第四次に分類されている。
アメリカ・イギリス・フランスがイスラエルに、ソ連がアラブ側に対して支援や武器供給を行っていることから、代理戦争の側面も含んでいる。
ただし、初期にはアメリカはイスラエル支援に消極的であり(ソ連はもっぱらアラブ側に支援)、この間隙を突く形で(支援というよりは「商売」として)フランスが武器供給を行なっていた。第3次中東戦争以降は石油政策などからフランスがアラブ側に回り、アメリカのイスラエル支援が明確となり、さらに中華人民共和国や(革命後の)イランが武器供給や軍事支援においてアラブ側に巧みに入り込むなど、大国や周辺諸国の思惑に振り回されているとも言える。
パレスチナは長い間イスラーム国家の支配下にあったが、異教徒が弾圧される事も少なく、この頃まではユダヤ人とアラブ人の垣根なく(人種的にも同じで、宗教の相違によって双方を認識した)、お互いを認め合いながら共存してきた。しかし第一次世界大戦にオスマン・トルコが参戦し、連合国に敗れると、その領土はイギリスとフランスによって細かく分割され、保護国の名のもとに植民地化された。
このころすでにドレフュス事件などの影響もあり、欧州ではパレスチナ帰還運動(シオニズム)が起こっていた。ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国で離散生活をしていたユダヤ人(人種的に白人との同化が進んでいた)によるパレスチナ入植がはじまった。パレスチナを統治しているイギリスなどのヨーロッパ諸国は、はじめは入植を規制しなかった。
急増した入植ユダヤ人は、パレスチナ人(元居たユダヤ人も含め)との友好を望まず、それまでユダヤとアラブの間にあった友情は失われた。アラブ人は急増する入植ユダヤ人を恐れ、イギリスに対して入植の制限を求め、イギリスも制限を承諾した。すると、ユダヤ人過激派がイギリスに対して爆弾テロで反撃した。