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また、プルトニウム製造工場(ハンフォード工場、ワシントン州リッチランド)の送電線に引っかかり短い停電を引き起こした。これが原爆の製造を3日間遅らせたという説が伝えられているが、実際には工場は予備電源で運転されており、原爆の完成にほとんど影響はなかったという[12]。焼夷弾は小規模な山火事を起こしたが、冬の山林は当然積雪で覆われていて火が燃え広がりづらく、特筆される大きな戦果をあげた記録はない。 しかしながら、風船爆弾による心理的効果は大きなものがあった。アメリカ陸軍は、横浜 マンション が生物兵器を搭載することを危惧していた。着地した不発弾を調査するにあたり、担当者は防毒マスクと防護服を着用している(実際生物兵器を搭載される案があったが、昭和天皇の反対により搭載される事はなかった)。また、少人数の日本兵が風船に乗って米本土に潜入するという懸念を終戦まで払拭することはできなかった。風船爆弾対策のため、アメリカは大きな努力を強いられた。一方でアメリカは厳重な報道管制をしいて風船爆弾による被害を隠蔽した。これはアメリカ側の戦意維持のためと、日本側が戦果を確認できないようにするためであった。この報道管制は徹底したもので、戦争が終わるまで日本側では風船爆弾の効果はまったくわからなかった。 アメリカ軍の戦略爆撃の一環として計画。マリアナ諸島を出発したB-29爆撃機の編隊239機は九州を北上して福岡上空に到達。日本軍側は高射砲で応戦するも福岡市北部と東部に防空機能を位置づけていたため、福岡市南部の脊振山方面から進入してきた爆撃隊には効果なく、日本時間6月19日23時11分から焼夷弾投下が開始された。 博多や天神を中心に爆撃が行われ、SEO は御笠川から樋井川まで、南北は博多湾海岸線から櫛田神社・大濠公園までの一帯が焼失した。約2時間の空襲により福岡市の3分の1の家屋が罹災。戦後の調査によれば、市内でもとりわけ奈良屋・冷泉・大浜・大名・簀子の5校区の被害が激しく、死傷者の9割を占め、あたり一帯は瓦礫ばかりの焼け野原と化した。そのような中において、1931年に建設された奈良屋小学校(現在の博多小学校の立地)の鉄筋コンクリート製の一校舎は住民の消火活動もあって焼け残った。 避難所であった旧十五銀行福岡支店(現在の博多座の立地)の地下室に避難した63人が閉じ込められたうえ熱死するという惨事も起きた。後日行われた遺体搬出作業には、当時佐世保相浦海兵団輸送班員であった村田英雄も携わった。 上述地域のほか、薬院・当仁・新柳町(現在の清川)・平尾・六本松・田島・姪浜など多数の場所も被災。また脊振山の山裾に位置する早良郡・糸島郡・筑紫郡の村々も爆撃された。これは脊振山の影を博多湾の海岸線と誤認したためであった。このうち雷山村(現在の前原市雷山地区)では30棟が全焼し、8人の死者を数えた。 日本軍の施設のうち、福岡城址の西部軍司令部や歩兵第124連隊の建築物に被害が出た。しかし同年5月に滑走路が完成していた席田飛行場(現在の福岡空港)には被害はなく、終戦後の同年10月に米軍板付基地として接収されることとなる。 空襲の翌日、モバイルSEO に収監されていた連合軍捕虜が報復処刑された。同様の処刑は原子爆弾投下後の8月10日、終戦の8月15日頃にも行われた。 戦災による人的被害のみならず各流の山笠台や法被等が焼失したため、同年の博多祇園山笠は中止となる。終戦後の翌1946年5月25日には「第一回奈良屋復興祭」が開催され、ベニヤ板に太閤豊臣秀吉を描いた子供山笠が焼け野原を舁き回った。本格的な再開は1948年。 福岡大空襲を慰霊して冷泉公園には戦災記念碑が1965年に建立され、毎年6月19日には記念碑前で「福岡市戦災引揚死没者追悼式」が開催される。博多小学校には戦争資料を収集した平和記念室あり、入口は戦災で焼け焦げた旧奈良屋小学校の壁や扉をそのまま用いている。かつて博多区上川端町にあって現在西区今宿に移転した栄昌寺には十五銀行の被災者を祀った「じゅうご地蔵」がある。福岡市各地にはそのほか慰霊碑や戦災地蔵が建立された。また福岡市立小中学校の一部では6月19日に平和教育を行っている。 焼夷集束弾や普通爆弾などによりまず陸軍射撃場のあった北本庄地区などの市周辺部、次いで市中心部が無差別爆撃を受けた。この逃げ道を火の海にして退路を塞ぐ攻撃法は、日本本土空襲におけるアメリカ軍の常套手段であった。 当時の福山市にあった日本火薬(現在の福山日本化薬)・三菱航空機(現在の三菱電機福山製作所)・帝国染料などの軍需工場、帝国陸軍歩兵第41連隊司令部及びその付属施設、帝国海軍福山海軍航空隊が主要な目標とされた。 またこの福山を襲った編隊のうち1機が帰路に岡山県浅口郡北木島村(現在の笠岡市北木島町)へ爆弾を投棄し、死者が出ている。 空襲の犠牲者の慰霊碑は福山中央公園に建立されている。この慰霊碑は「追憶」と命名されており、空襲から逃げ惑う母子3人の銅像である。この像のモデルは翌日に田んぼで火に撒かれ絶命していた母子3人(氏名も判明しており、市内の主婦と彼女の2名の子供であった)で、彼女らを慰霊する主旨となっている。毎年空襲の慰霊祭はこの像の前の広場で執り行われている。なお慰霊碑は1967年に建立され、公園整備により2008年に周辺が新調された。なお空襲の慰霊碑の隣には広島原爆の慰霊碑も建立されているが、これは8月6日の広島市への原爆投下の救援のために福山市駐留の部隊や勤労奉仕の市民が向かい、入市被爆の犠牲になった者が少なくなかったためである。 鉄筋コンクリート造のものも一部に造られたが、第二次世界大戦時の空襲に備えたものは物資難の状況から多くは土に穴を掘り、周囲に土を盛ったり、廃材を利用して築いていた。 都市部に造られた簡易なものは、大戦の終結後まもなく破壊されたが、郊外に造られた洞窟状の防空壕や、鉄筋コンクリート造のものが残っていることもある。戦争遺跡として保存すべきという意見もあるが、崩落など事故が懸念されるものもあり、各地で問題になっている。 冷戦期には大量破壊兵器の恐怖からNBC-すなわち核兵器、生物兵器、化学兵器-から防護されたシェルターやその機能を持つ地下鉄駅などが盛んに作られた。 太平洋戦争時の防空壕(三重県) 当時の防空壕の内部日本では第二次世界大戦中に、アメリカ軍をはじめとする連合国軍機による銃後への大規模空襲が現実のものとなり、空襲の危険から逃れるため、1944年頃から学校の校庭、強制疎開跡の空き地、個人宅内などに大量に作られるようになる。空襲警報が鳴ると、身近なところに造られた防空壕に身を隠した。 第二次世界大戦中を中心に述べれば、防空壕は爆風、爆弾破片、爆風によって飛散、飛来する土砂、石礫などによる危害を避ける、あくまでも待避設備であり、応急的であり、命中弾を受けた場合の安全性はかならずしも保証されない。上空に敵機の飛来を受けつつある間のみの待避場所であり、敵機の離去とともに防空活動を再開続行するべきであるから、普通、敷地内の庭、空地などに設けられる。理想的な立地条件についていえば、煉瓦建造物、煉瓦塀その他の崩壊し易いものから相当へだたった所が適当である。家屋密集地で自敷地内に余地の無い場合は付近の空地が選ばれる。大きさは一弾による被害を局限するために 20人収容を限度とし、なるべく小単位のものが分散的に配置されるべきである。構造は、座るか、腰掛けていられる程度の深さ、すなわち 1.5m 程度に穴を掘り、土質が軟弱である場合は杭と板で土留めをし、掩蓋として丸太、角材などを渡し、雨戸や板などを敷き、掘り出した土を 30〜60cm 厚さに積む。以上は地下式の場合である。地下水位が著しく高い、または舗装地面であるなど、地下式にできない場合は半地下式、地上式とするが、その場合の側壁の厚さは、土嚢などにより土を用いた場合は 1m 以上、煉瓦、石その他の場合は 50cm 以上を標準とする。入り口は弾片、崩壊物の飛散物、爆風などが直接、侵入しないように防護塀を設けたり、入り口を屈曲させたりする。入り口に厚い板戸を設ければ爆風をある程度阻止し、雨水の浸入を防止することができるとされ、防毒幕を二重以上適当に取り付ければ防毒の効果も期待できようといわれた。壕内への雨水の流入の防止、また排水については特段の注意を払い、床は板敷きまたは砂利敷きにするなど、水でぬかるまないように心がける。壕内に木または土嚢などで腰掛けを設ければ便利である。防空壕を造る材料としては次のようなものが必要であった。丸太、押角、古い角材その他(柱、杭、梁材として)、板、古い雨戸、アンペラ、筵、砂利その他(天井、壁、床の材料として)、釘、鎹(かすがい)、針金、縄その他(緊結の材として)。また、側壁、天井を土嚢、土箱などを積んで造る場合は布袋、俵(たわら)、叺(かます)、箱、籠などが必要であり、構築用具として、鍬(くわ)、シャベル、畚(もっこ)が必要であった。 現在、日本では全国5000箇所以上に造られた防空壕の陥没問題が深刻化しており、入り口をコンクリート、内部を土砂で埋め戻す作業が行われているが、あまり進んでいないのが現状である。このため、防空壕内で遊んでいた小・中学生が一酸化炭素中毒や酸素欠乏症で死亡する事故も発生している。これは、戦時中に国が国策として掘削したにもかかわらず、基本的に防空壕の所有権は土地の地権者にあるとされ、国が国費を投じて埋め戻すことを拒んでいるためである。また、民間で設置した小規模な防空壕は場所も基数も調査のたびに増加するなど、全体像の把握には至っていない。これらのことから、防空壕を埋め戻すのではなく、所有権を防衛省に与えて鉄筋コンクリートなどで補強するべきとの意見もある。