■見通し
1993年、アメリカ合衆国大統領に中東和平を重視した民主党のビル・クリントンが就任すると、前年にイスラエル首相となったイツハク・ラビンとともに、アラブ各国への根回しをしながら和平交渉に乗り出した。9月、PLO(パレスチナ解放機構)とイスラエルが相互承認したうえでパレスチナの暫定自治協定に調印した。これによってヨルダン川西岸とガザ地区はパレスチナ・アラブ人の自治を承認した。協定は1994年5月に発効したが、ラビンの和平路線は国内の極右勢力から憎まれた。また、イスラエルの存在を認めたPLOに対し、パレスチナの過激派からも不満が出た。
1994年7月、ラビンはパレスチナの国際法上の領主ヨルダンとの戦争状態終結を宣言し、10月に平和条約を結び、その直前にラビンはPLOのヤセル・アラファト議長とともにノーベル平和賞を受賞した。
1995年3月にはゴラン高原をめぐってシリアと直接交渉を開始、イスラエル軍が段階的に撤退することとなり、ゴラン高原は国連の監視下に入った。9月、イスラエルとPLOはパレスチナの自治拡大協定に調印し、パレスチナのアラブ国家建設への道が築かれた。
1995年11月、ラビンは極右のユダヤ人青年に射殺された。また1996年2月から3月にかけ、パレスチナ過激派がイスラエルでラビン暗殺に抗議する爆弾テロを引き起こし、和平はついに暗礁に乗り上げた。PLOは4月に民族憲章からイスラエル破壊条項を削除し、和平維持を望んだ。
9月、エルサレムでアラブ系住民が暴動を起こし、イスラエルは軍をもってこれを鎮圧した。1997年、イスラエルはパレスチナのヘブロンから撤退する一方、アラブ人の住む東エルサレムにユダヤ人用集合住宅を強行着工、国連は2度の緊急総会を開いて入植禁止を決議するに至った。ところが、イスラエルで爆弾テロが起こり、アメリカは和平継続を求めて中東を歴訪した。アラブ各国は中東和平交渉の再開に賛成し、一応の安定を見た。
1999年、PLOはパレスチナ独立宣言を延期。イスラエルはシリアと和平交渉に就いた。2000年にパレスチナ村の完全自治移行を決定した。しかし、聖地エルサレムの帰属をめぐって交渉は決裂した。イスラエルの右派政党党首アリエル・シャロンはエルサレムの「神殿の丘」を訪れ、パレスチナ人の感情を逆なでする行動をとった。これを機に、パレスチナ全域で反イスラエル暴動が起こり、中東和平はここに崩壊した。
2001年3月、イスラエル首相に右派シャロンが就き、シャロン政権が自爆テロを引き起こし国内を混乱させているとみなす勢力であるPLOや武装勢力ハマースの幹部殺害をはじめた。また分離フェンスを設置しパレスチナ側から非難を招いた。その結果パレスチナ側は自爆テロでエスカレートさせ、中東和平は一層難しいものとなった。
2006年7月、イスラエルのレバノン侵攻によりアラブ諸国がイスラエルを非難。アラブ諸国との対立の激化が懸念されている。「アルジャジーラ」などアラブのメディアは、この戦争を「第六次中東戦争」と報じたという[3]。
イスラームと反ユダヤ主義の関係は、現在学会で論争となっているテーマの一つである。
一般に前近代のイスラーム世界ではキリスト教世界に比べてユダヤ人の地位は良好だったという意見が学会の主流である。これをやや理想化したものとして、「ユダヤ人はキリスト教世界に於いてはしばしば支配者によるスケープゴートとして虐殺や追放などの迫害を受けてきたが、イスラーム世界では寛容の精神の元平和に暮らすことが出来た。」という意見が主張されることも多い[1]。
前近代の多くのムスリム支配の時代・地域に於いてユダヤ人は決してムスリムと
データ復旧
な地位を与えられたことは無かった。前近代のイスラームに於いて絶対的に近い権威を持ったシャリーアに於いては、ユダヤ人は厳しく権利を制限された隷属民であるズィンミーとして処遇されると明確に記されている。またコーランの章句やハーディスにも、ムハンマドとユダヤ人との戦いの影響でユダヤ人に対する敵意をほのめかす記述が散見されている[2][3][4][5]。
ここからイスラーム
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に於ける反ユダヤ主義の実情について、親イスラーム的学者や反イスラーム主義的学者、ユダヤ人、非ユダヤ人、ムスリム、非ムスリムなど様々な立場からの意見が提出され、現在でも論争が継続している。
12世紀後半のマグレブに起こったムワッヒド朝は、熱烈なイスラーム信仰からキリスト教徒、ユダヤ教徒への迫害を行った。アンダルスやマグレブでは両教徒に対する強制改宗(剣かコーランか)が発生し、アンダルスのユダヤ人は北部のキリスト教徒支配地域やエジプトなどに逃れるか、イスラームへの偽装棄教を余儀無くされた。マイモニデスもその一人で、虐殺を逃れるためイスラームに偽装改宗し、後にエジプトでムスリムの実力者とのコネを用いてユダヤ教への復帰をイスラーム法廷で認めさせた。しかしこのようなことは極めて難しく、殆どの場合棄教と見做され死刑宣告を受けた。
オスマン帝国は当初ユダヤ人に対し寛容な政策を取っており、スペイン異端審問から逃れてきたユダヤ人が多く移り住んだ。しかし帝国のアイデンティティーがイスラームに収束するにつれユダヤ人の地位も低下、更に数的に同じズィンミーであるキリスト教徒に及ばないユダヤ人は事実上の三等市民としての生活を余儀無くされた。但し同時代のヨーロッパに比べればまだ良好な処遇を受けた。
イスラエルのパレスチナ占領とパレスチナ人に対する残虐行為、およびシオニストの反アラブ・反イスラーム的なレイシズム[6]への反発からイスラーム世界では反ユダヤ主義が高まりを見せており、パレスチナのハマスも含めイスラーム原理主義組織の中にはユダヤ人を敵として宣言したものが多数存在する。
パレスチナ市民・アラブ世界の市民、アラブ研究者の多く、左翼陣営の研究者、日本のマスメディアなどは、「イスラエル国家のパレスチナに対する残虐行為などから、イスラーム世界では反ユダヤ主義が高まりを見せており、イスラーム原理主義組織の中にはユダヤ人を敵として宣言したものも存在する。」と主張する[要出典]。反ユダヤ主義者は、このようにして反ユダヤ主義を正当化・合理化し、反ユダヤ主義を公言する権利(レオン・ポリアコフ)を享受する[要出典]。
イスラム教徒の反ユダヤ教に関する
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神学上の原点を理解し、2000年間連綿と続くイスラム教徒とその世界の反ユダヤ史を認知することによってのみ、今日のイスラム教徒のイスラエルヘの憎悪が理解できる。
ユダヤ人国家の建国が、イスラム教徒の憎悪をもたらしたのではない。それは反ユダヤ主義を強固にし、新しい論点を提供したにすぎない。
神学上の原点と長い反ユダヤの歴史を知るとき初めて「「シオニズム運動」以前には、ユダヤ人とイスラム教徒とは調和を保って暮らしていたし、イスラム教もイスラム教徒も、ユダヤ人に対して憎悪を抱いたことはなかった」というイスラエルの敵の主張が、いかに欺備に満ちたものであるかをはっきりと認識できる。
イスラム教徒の中でユダヤ人が自らを劣った存在であると認めるかぎりにおいては、ユダヤ人の自尊心は傷つけられることはあっても、存在することは許された。しかし、ユダヤ人がひとたび「劣った存在」でいることに反旗をひるがえし、1500年間にもわたった隷属の状態の末に主権者となり、最悪なことには、ユダヤ人たちが長らく続治されてきた土地で一部のイスラム教徒を今やユダヤ人が統治すると決意するや、ユダヤ人の存在が、もはや
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ならないものとなった。
熱烈なイスラム教徒の、イスラエルと「シオニズム」ヘの憎悪は、完全に政治的な敵愾(がい)心を凌駕する憎悪である。イスラム教徒はイスラエルの打倒を求めるのではなく、絶滅を求める。多くのイスラム教徒にとつては、憎悪の根源はユダヤ人国家の存在にあり、イスラエルの政策ではなく、更に国境線の問題でさえもない。
論点は「反ユダヤ主義ではなく、「反シオニズム」にあるという、イスラム教徒とアラブの主張は、言い換えれば、ユダヤ人は、アラブのイスラム諸国の中で二級市民の地位に甘んじ、ユダヤ教がもつ「民族」的要素を表現しないかぎりは、個人としてのユダヤ人の存在を認めてもよいということを意味する。 しかし、ユダヤ人がイスラム教徒の中で平等を望み、「屈辱とみじめさ」以上の社会的地位を望むことは、高望みとされる。[7]