■戻り売り
パレスチナのインティファーダは「イスラエルによるパレスチナ軍事占領に対する2度の民衆蜂起(或いは抵抗運動)」に対する呼称として一般的に使用される。イスラエル強硬派からは「既にパレスチナ自治区が存在するにもかかわらず(第一次時点では未発足)、国際社会を反イスラエルに向けようとするテロ作戦の一環」とみなされ、「蜂起を名目とした不均衡な戦争」として主張されることもある。イスラエルの一部ではインティファーダとそれへの弾圧などにより「強硬な対パレスチナ占領政策」の誤りに気付き、良心的兵役拒否や和平支持などの運動が広がる契機となった。
第1次インティファーダ (First Intifada) は1987年に発生した。12月9日にガザ地区においてイスラエル人のトラックとパレスチナ人のバンが衝突事故を起こし、4人の死亡者が出たことがきっかけであった。暴力行為は1991年頃に下火となり、1993年8月のオスロ合意およびパレスチナ自治政府の設立に伴い沈静化した。
第2次インティファーダ(アル・アクサ・インティファーダ)は2000年9月29日に発生した。イスラエルのシャロン・リクード党首・外相(後に首相)が1,000名の武装した側近と共にアル・アクサモスクに入場したのがきっかけであった。
インターネットを通じてパレスチナの
先物取引
とパレスチナ問題に対する国際世論の関心を高めることを目的とした「エレクトロニック・インティファーダ(Electronic Intifada)」という名称のパレスチナの抵抗運動サイトも作られている[2]。
1991年湾岸戦争直後の3月、イラクの南部でシーア派が、北部ではクルド民族がフセイン政権に反発して大規模な反乱を起こしたが、これもインティファーダと呼ぶ。湾岸戦争の際クウェート駐留のイラク軍が湾岸戦争の敗退でイラク国内に敗走、その過程で反戦・反フセイン意識がイラク軍内に高揚したことから、一将校がバスラのサダム・フセインの肖像を攻撃したことをきっかけに、急速に国内に反乱が広がった。全国に拡大した反乱勢力は米軍の協力を期待したが、米軍は静観したため兵力を温存したイラク政府軍が3月後半には鎮圧に成功、反乱側は10万人近くが虐殺されたとされる。
2003年のイラク
FX
の後、ムクタダー・サドルはイラクの米軍による軍事占領の終了を目指し「イラクの反乱」(Iraqi Intifada)[3]と呼ばれる暴動を指揮した。
エジプト・イスラエル平和条約(アラビア語: ?????? ?????? ??????? ???????????; ヘブライ語: ???? ???? ?????-?????)は、キャンプ・デービッド合意に基づき、1979年3月26日、アメリカ・ワシントンD.C.で署名された。この条約の主な特徴は、相互の国家承認、1948年以来続く中東戦争の休戦、そして1967年の六日間戦争で占領したシナイ半島からのイスラエル軍及び入植者の撤退、であった。この協定はまた、スエズ運河におけるイスラエル船舶の自由航行と、チラン海峡とアカバ湾を国際水路として認めることが規定された。
とりわけこの協定により、エジプトはイスラエルを正式に承認した最初のアラブ国家となった。1994年のイスラエル・ヨルダン平和条約により、ヨルダンがこれに続いた。
この平和条約は、激しい論争の後に、エジプト大統領アンワル・アッ=サーダートが1978年にイスラエル訪問して、その16ヶ月後に調印された。画期的なキャンプ・デービッド合意の後にさえ、条約が調印されるという確実性は全くなかった。エジプトは、単独講和条約に調印しないようにアラブ諸国からの激しい圧力下にさらされていた。イスラエル首相メナヘム・ベギンは、パレスチナの独立自治を許すような実際上の交渉のあらゆる枠組みを拒否していた。
同日結ばれた別個のイスラエル・アメリカ合意覚書において、アメリカは条約違反の場合におけるそのイスラエルへの関与、国連の役割、今後のイスラエルへの軍事・経済援助の提供について詳しく説明している。その後エジプトもまた、米国より軍事・経済援助を受け取った。
条約は、エジプトおよびパレスチナ自治政府との間の和平をリンケージさせることを企画していたが、それは実行されなかった。
ガザ地区は2005年8月から9月にかけ、イスラエルのアリエル・シャロン首相とパレスチナ自治政府ファタハとの合意に基づいて、停戦を条件にユダヤ人入植地撤廃と軍の撤収が行われた(婚約解消計画)が、2006年1月のパレスチナ選挙で、イスラエル破壊を唱える強硬派ハマスが政権を獲得し、両者の緊張が高まった。また、撤収を進めたシャロンは1月に病気で退陣し、中道の側近エフード・オルメルトが首相になるなど、事態は急速に変化した。オルメルトはシャロンの政治を受け継いで、ヨルダン川西岸地域からの軍撤収(いわゆる分離壁はこのために建設している)も発表したが、右派政党リクードや軍、官僚の強い反発にさらされていた。
2006年6月10日、イスラエル軍が発射したと思われるミサイルがガザの海岸に着弾し、女性や子供8名が爆死した。すぐにイスラエル政府は、ミサイル発射の方角を誤ったとして、ミサイルが自軍のものと認めたが、後にベレツ国防大臣は「爆発は海岸に埋まっていた古い爆弾によるもの」として、軍の関与を否定する発言を行った。これに対し、元アメリカ国防総省の調査員は発言を否定、物証によってイスラエルのミサイルであると証明すると、アメリカの人権団体までがイスラエルを非難しだしたため、イスラエルもミサイルが自軍のものであることは認めたが、責任は認めなかった。
これに対し、ハマス軍事部門はイスラエルとの停戦を破棄すると発表した。ハマス傘下の過激派は、ガザから小型ロケット砲でイスラエル住宅地への攻撃を行うようになり、ガザ撤収の前提となっていた停戦は崩壊した。
ベンヤミン・ネタニヤフ元首相を始めとする右派政党リクードは、ガザへの即時再進軍を主張し、6月18日にはアメリカ合衆国の右派(ネオコン)代表格であるディック・チェイニー副大統領がイスラエルを訪問、ネタニヤフと懇談した。内容は明らかではないが、ネタニヤフの主張を支持したと思われる。一方、オルメルト首相は6月24日に「進軍は戦争の長期化を招く」として否定した。しかし、彼の発言は1日で覆された。
6月25日、ハマス系武装勢力がガザ南部の国境地帯にあるイスラエル領内の軍駐屯地にトンネルで侵入し、銃撃戦となった。双方に戦死者を出しながら、兵士1名を拉致して撤退した。イスラエル兵がパレスチナに拉致されるのは10年振りであり、リクードや軍の意向の元、オルメルトは兵士の救出のためとして、戦車隊を中心とした陸軍をガザ地区に進軍させた。イスラエル軍はガザの幹線道路や発電所を破壊、ガザの市民生活は麻痺状態に陥った。6月28日には、ハマス系議員20名と閣僚の3分の1を逮捕して軍の監視下に置き、ガザ自治政府は機能を停止した(元々ガザはヨルダン川西岸から統治が分離している)。さらにこの日、イスラエルの戦闘機がシリア大統領アサドが滞在する別荘上空を飛び回り、シリア軍を挑発した(シリアは動かなかったが、これによりイランと実質的な同盟を結んだ)。この侵攻以後、ガザ地区はイスラエル軍による占領下に置かれた。
また、イスラエルは7月12日に隣国レバノンへの攻撃を開始、地上軍の侵攻に至ったが、8月半ばに停戦し、10月初めに撤退した(2006年レバノン侵攻)。一方、オルメルトが進めたヨルダン川西岸からの撤収計画は、9月に自身によって延期が宣言された。
パレスチナでは、侵攻を招いたハマスの支持率が低下し、9月からハマスとファタハの連立政権が模索され始め、9月11日にファタハのアッバース議長が連立を発表した。ガザ地区ではファタハを支持するデモが行われたが、これらは給料の滞るハマス政権に不満を持った警察官などで構成されていたが、デモは白熱し、ハマス支持者と衝突した(ガザはハマス支持者が多い)。これをきっかけに、両者の激突となり、ハマスがイスラエル破壊の停止を拒否したことから、10月に連立計画は解消された。衝突は継続しており、ガザ地区の治安は悪化している。すでにハマス単独内閣の維持は難しい情勢であり、アッバース議長が中心となって、連立政権が樹立された。