■揉み合い

11月16日、欧州連合とフランス・イタリア・スペインの3国は、イスラエルとパレスチナに対し和平案を提示した。当初、イスラエル政府は和平案を一蹴したが、その後は態度が変化した。 11月26日、パレスチナ暫定自治政府とイスラエル政府との間で停戦が合意された。イスラエル軍の攻撃によって、ガザ市民に約400名の死者が発生した。合意以前にイスラエル軍のガザ北部からの撤退は完了しており、南部からも撤収した。しかし、パレスチナ過激派の一派はイスラエル攻撃の継続を宣言しており、実質的な戦争状態は今後も続くと予想された。 オルメルトは翌27日にも、「真の和平実現と引き換えに、占領地から入植地を撤去させ、パレスチナ国家の建設を承認する」と発表、さらには拉致兵士の釈放と引き換えに、長期囚を含む政治犯の釈放と、ハマス政権成立以来停止していた消費税と関税(イスラエルが代行徴収している)の送金を再開すると宣言した。この柔軟路線への転換は、ハマスの求心力低下と共に、11月7日に行われた米中間選挙で共和党が敗北し、ネオコン勢力が弱まった事から、後ろ盾を失ったリクードの発言力が小さくなった為と考えられる。 一方、ガザ内部でのハマスとファタハの攻防は激化しており、11月中には銃撃戦で死傷者が相次ぎ、月末に停戦したものの、12月には衝突が再燃し、年末には「内戦状態」と報じられるほどに治安が悪化してしまった。 翌2007年になってもハマスとファタハの対立は続き、同年6月に遂にハマスはファタハへの全面攻撃を開始、自治政府議長官邸や主要政府施設、警察署などを占領した。自治政府はハマスの行動を非難、即日ハマスとの連立政権を解消し、欧米の追認のもとファタハ単独政府が設立された。ガザは事実上のハマスによる独立国家と成り、パレスチナは東西に分裂した。 キャンプ・デービッド合意(英語:Camp David Agreement)は1978年9月17日、アメリカ、メリーランド州の大統領山荘キャンプ・デービッドで、中東和平の問題に関してエジプトのサダト大統領、イスラエルのベギン首相、アメリカのカーター大統領の間で交わされた合意のことである。一定の成果があったが、アラブ諸国は猛反対した。 この合意に基づき、翌1979年3月にエジプトとイスラエルの間で平和条約が締結された。 クネイトラ(クネイトゥラ、アル・クネイティラ、Quneitra, Al Qunaytirah, Qunaitira, Kuneitra、 アラビア語: ????????)は、シリア(シリア・アラブ共和国)南西部のクネイトラ県の県都で、戦争で破壊され廃墟となっている都市。レバノンおよびイスラエル国境に近い街で、ゴラン高原の谷間に位置し標高は1,010m[1]。クネイトラはオスマン帝国時代にダマスカスから南方へ向かう隊商路の中継地として作られ、後にはイスラエル国境に近い戦略的に重要な都市として兵営が置かれ、人口は20,000人を数えた。 1967年6月10日、「6日間戦争」(第三次中東戦争)の最終日にクネイトラはイスラエル軍に占領された。1973年の「ヨム・キプール戦争」(第四次中東戦争)でシリア軍が一時は奪回したが、イスラエル軍の反撃により再度イスラエル軍が奪回した。1974年6月にイスラエル軍は撤退したが、それまでにクネイトラの街並みは激しく破壊されていた。現在、クネイトラの廃墟は国際連合兵力引き離し監視軍(UNDOF)の管轄するシリアとイスラエル間の兵力引き離し地帯にあり、両国の事実上の国境から程近い場所にある。イスラエルはクネイトラを故意に破壊したことについて国際連合の非難を浴びている[2]。一方でイスラエルは、シリア政府がプロパガンダのため故意にクネイトラを再建しないと非難している[3]。 クネイトラ近郊(シリア側)のバレーカ村(Bareeqa)クネイトラはシリア南西部のクネイトラ県の県都ということになっており、クネイトラ県はイスラエル占領下のゴラン高原を管轄していることになっている。クネイトラは、ゴラン高原のうちシリアが支配している部分にある[4]。 クネイトラはゴラン高原の内部、標高の高い谷間に位置する。すぐ西にはゴラン高原のうちイスラエルが管轄している部分が迫り、ハル・ベンタル(Har Bental)の峰がそびえる。周囲の平地からの高さおよそ150mから200mの火口丘が多数あり、ここから古代に流れ出した溶岩流がゴラン高原の地形を形成している。またこれら古代の火口丘は、戦いの際には監視および砲撃の拠点として重要であり、特に第四次中東戦争の際は丘をめぐる争奪戦が起こっている。平和な時代には、火山性の肥沃な土壌はコムギ栽培や牧畜などの農業活動を支えてきた[1]。 クネイトラは重要なFX の途中にあり、歴史上のほとんどの期間は住民がいた。20世紀初頭はコーカサス地方からオスマン帝国に逃れたムスリムたちが入植していた。1946年のシリア独立時には人口は21,000人を数え、多くはアラブ人だった。1967年に放棄され、その後の破壊もあって人口のほとんどはシリア各地に散った。シリアの治安関係者が残る以外、クネイトラは今も放棄されている。 クネイトラ周辺は数千年に渡り人が住んでいる。近郊からはムステリアン文化(ムスティエ文化、Mousterian)の石器が発掘されるなど、旧石器時代の狩猟民や採取民が住んでいたことがうかがわれる[5]。集落は古代ローマかビザンティン時代に遡り、ダマスカスからパレスチナ西部への道の宿場となっていた。聖パウロはエルサレムからダマスカスへの道の途中でこの付近を通ったとされる。有名な「パウロの回心」が起きた場所は、伝統的にクネイトラから北東にある小さな村コカブ(Kokab)とされてきた[6]。 近代のクネイトラは、オスマン帝国が古代の住居の石材などを再利用して作ったキャラバンサライ(隊商宿)の周囲に発展した。20世紀までにクネイトラはゴラン高原地方の行政中心地となり、ロシア帝国に追われてコーカサスから逃げてきたムスリム難民の入植地となった。第一次世界大戦の際、1918年9月29日、オーストラリア騎兵師団などがダマスカス攻略の途上でオスマン帝国軍をこの地で破っている。また第二次世界大戦のシリア・レバノン作戦の際にも、英・印・自由フランス連合軍とヴィシー政権軍との戦いが行われた。 第二次世界大戦後、シリアがフランスから、イスラエルがイギリスからそれぞれ独立すると、クネイトラは両国国境から64km(40マイル)にある主要道路の交差点として戦略的に重要となった。市場と基地が置かれて人が集まるようになり、クネイトラの人口はアラブ人を中心に2万人を超えた。 1967年のゴラン外為 の戦いクネイトラにはシリア軍の司令部が所在した。第三次中東戦争(6日間戦争)最終日の1967年6月10日、シリア軍が混乱に陥るうちにイスラエル軍はクネイトラを占領している。この日の朝、イスラエル軍が北西から進軍すると、クネイトラのシリア軍は激しい砲撃の中でダマスカスへの道を守るため街の北に展開しようとした。午前8時45分、シリアのラジオ放送は誤ってクネイトラが陥落したと報じた。シリア軍は驚き、移動中の部隊はそのままダマスカスへ向かって退却を始めた。2時間後訂正の放送がなされたが、イスラエルは混乱に乗じクネイトラを占領した[7]。アルバート・マンドラー大佐の指揮する部隊は午後2時30分にクネイトラに入ったが、特に抵抗は無く、街は荒廃しシリア軍の装備が散らかったままだった。戦車はエンジンが動いたままで、通信装備も動いたままであった[8]。 タイム誌は「ダマスカスのラジオは停戦を実行するよう国連に外国為替 をかけようとするために、エル・クネイトラが実際に占領されるよりも3時間前にクネイトラ陥落を報じたが、自軍を不利に追い込んだ。自軍の司令部が降伏したとするこの早まった報道はゴラン高原に残されたシリア軍部隊の士気を損なった」と報じている[9]。 午後遅くに停戦が合意され、クネイトラはイスラエル占領下のままになった。1967年6月、タイム誌は「エル・クネイトラはゴーストタウンとなり、商店はシャッターを下ろし、誰もいない通りを家から家へ、隠された武器弾薬がないかイスラエル兵が捜索している。シリア軍がガリラヤ湖の向こう岸のキブツ群砲撃に使ったマジノ線のミニチュアのような要塞をイスラエル工兵が組織的に破壊するたび、丘に爆発音がこだまする」と報じた[10]。 国連事務総長の特別代表ニルス=ゴラン・グッシング(Nils-Goran Gussing)は7月にクネイトラを訪れ、「ほとんど全ての店や家が内部に侵入され略奪されたように見える」と述べ、いくつかの建物は略奪後火をつけられていたとも述べた。イスラエルのスポークスマンたちはグッシングに、クネイトラは撤退するシリア人たちが略奪したと説明したが、国連代表はラジオの誤報から実際の陥落までの数時間では、略奪の時間としては短すぎるためありえない話だと見た。彼は「クネイトラの町に対するこの広範囲の略奪の責任の大部分はイスラエル軍にある」と結論した[11]。 荒廃したクネイトラは6年間イスラエルの占領下にあった。しかしこの間(現在も)イスラエルとシリアは戦争状態にあり、シリアは1970年代初頭に何度かクネイトラを砲撃している。1970年6月、シリア軍部隊が攻撃を仕掛けたほか[12]、1972年11月にはダマスカスの放送はシリアの砲兵が再度クネイトラを砲撃していると報じた[13]。