■模様眺め
11月16日、欧州連合とフランス・イタリア・スペインの3国は、イスラエルとパレスチナに対し和平案を提示した。当初、イスラエル政府は和平案を一蹴したが、その後は態度が変化した。
1973年10月6日に勃発した第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)の最初の数日間、クネイトラはシリア軍が奪還したがイスラエル軍は反撃して再度奪還した[14]。1973年10月半ばにイスラエルの反撃が始まった時点でシリア軍は長さ100km近い前線に1,000台の戦車を置いていた。イスラエルは戦車を集中させてシリア軍に突撃し、シリア軍は最初後退したものの体勢を立て直し占領地へ反撃した。クネイトラは何度も両軍の手に渡ったが、ファントムとスカイホークによるナパーム弾攻撃に支援されたイスラエル機甲部隊は最終的にシリア軍の進軍を止めて押し返した[15]。
イスラエル軍はクネイトラを1974年6月初頭まで占領したが、アメリカ合衆国が仲介する兵力引き離し合意が1974年5月31日に調印されたことを受けてシリアの文民支配に返還された。クネイトラを明け渡すことはイスラエル国内では
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で、イスラエル人入植者[16]やリクード、国家宗教党は反対し[17]、短期間周囲に入植地を築いていたほどだった。合意では、クネイトラの街はシリアの平和的な意図の証拠として再び居住の用に供されることを規定しており、シリアに善行のための荷物を背負わせることでイスラエルが後方へ撤退することを促進しようとしていた[18]。6月6日に兵力引き離しは実行に移され[19]、6月26日にはシリア大統領ハーフェズ・アル=アサドはクネイトラに赴き街の再建と残る占領地の回復を誓約した[20]。
破壊されたクネイトラの建物1974年7月はじめ、街に帰るシリア人難民に同行した西側の記者は完全に破壊されたクネイトラの廃墟を見た。タイム誌の特派員は、「建物のほとんどは、ダイナマイトで破壊されたかのように平らにひしゃげ、もしくは砲撃で穴だらけになっていた」と報告している[21]。ルモンド紙のシリア特派員は、タイムズ紙に寄せた記事で破壊の詳細を次のように書き記した。
「今日、街はどこにあったか見分けが付かない。屋根が地面に横たわった家は墓石のように見える。がれきの一部は、ブルドーザーの軌跡がついた新しい土で覆われている。いたるところに家具の破片、捨てられた台所用品、6月第一週の日付のヘブライ語の新聞紙が散乱している。ここには引き剥がされたマットレス、あちらには古いソファのバネ、いくつかの壁はまだ立っているがヘブライ語で書きつけが残っている。『また勝負するぞ』、『お前達はクネイトラを望む、お前達は破壊されたクネイトラを得る』」[22]
街はイスラエル軍により組織的に破壊され[4]、動かせるものは撤去されイスラエルの業者に売られていた。空っぽの建物はトラクターやブルドーザーで引き倒されていた[23]。タイムズ紙の特派員は街が荒らされていた理由を推測して、「イスラエル軍のクネイトラ退去は、ダマスカスからイスラエルの捕虜達が帰り、数々の拷問を受けたという話が広まった直後だ」と述べ[22]、シリアの捕虜虐待に対する報復を示唆している(シリアは拷問を否定している)。
イスラエルは、
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の破壊のほとんどは2回の戦争と両軍による砲撃によるものだと主張した[24][25]。イスラエル軍撤退前に書かれた記事のいくつかはクネイトラを「廃墟」「砲撃で傷ついた」と描写している[26][27][28]。タイムズ紙の特派員はイスラエル軍撤退1ヶ月前の5月6日にクネイトラを見ているが、街を「廃墟になっており、7年間の戦争と放棄で荒れ果てている。まるで地震に襲われた大西部の町のようであり、もしシリア人が取り返したとしたら多大な再建の負担が掛かるだろう。ほとんど全ての建物が大きい損害を受けている」と描写していた[16]。
これに対しイスラエル撤退前の街の状態を示す直接的な証拠は、ベテラン・ジャーナリストのピーター・スノーを含むイギリスのテレビ取材班がITNのために兵力引き離し交渉を取材した際、1974年5月12日に撮影した映像である。この取材はITNのニュース番組で報道された。タイムズの特派員エドワード・モーティマーは、「視聴者はこうして街のパノラマを見ることが出来た。街は1967年のシリア軍撤退以来ほとんど空っぽのままたたずんでおり、多くの建物が損害を受けていたが、ほとんどの建物はまだ建っていた」と述べる。これがイスラエル軍の引渡し後になると、「建っている建物はごくわずかだった。破壊された建物のほとんどは、普通の砲撃や空襲の後に見られるような輪郭がぎざぎざになった姿でも乱雑ながれきの山でもなかった。屋根が地面に横たわり建物がパンケーキのように潰れていた。私がこれまで知る限りでは、内部の壁をダイナマイトで爆破したときにしかできないような状態である」。モーティマーはこの映像が、街の破壊のうちのほとんどは5月12日以後、戦闘がクネイトラ周辺で起こっていない時期に行われたのではないかという疑念を与えるものだと結論付けている[29]。
国連は「占領地のパレスチナ人の人権に影響を及ぼすイスラエルの慣行を調査する特別委員会」(Special Committee to Investigate Israeli Practices Affecting the Human Rights of the Population of the Occupied Territories)を組織し、イスラエル軍が撤退前にクネイトラを故意に破壊したと結論付けた。報告書の結論は国際連合総会に送られ、クネイトラの破壊を「ジュネーヴ諸条約に対する重大な違反」であり「このような行為に対しイスラエルを非難する」と述べるこの報告書は賛成93、反対8(棄権74)で1974年11月29日に採択された[2]。国際連合人権委員会もクネイトラの破壊に対する非難を、賛成22、反対1(アメリカ合衆国)、棄権9で1975年2月22日に採択した[30]。
クネイトラの病院
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。シリア側が「ゴラン病院。シオニストに破壊され銃撃の対象になった」と書いた看板を掲げている2007年時点でクネイトラはまだ再建されていない。シリア政府は廃墟をその場に保存し、その破壊を記念する博物館を建てている。多くの建物の廃墟の前に看板が設置され、これら廃墟はイスラエル軍撤退時のままの状態に保たれている。街の以前の住民はクネイトラに戻らず、シリアはこの地域への居住を阻止している。旅行ガイド「Rough Guides」シリア版はクネイトラを次のように紹介している。「クネイトラ郊外の平らになった家々が見える瞬間は非常にドラマチックである。多くの無傷の屋根ががれきの上に載っており、建物が内破したような印象を与える」[7]。
クネイトラはシリアを訪れる海外のVIPたちの訪問地となっている。ソビエト連邦の首相アレクセイ・コスイギンは1976年6月に[31]、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は2001年5月に訪問した[32]。街の住民は数家族とごくわずかで、ゴラン高原を警戒する国連部隊に対するサービスを提供して暮らしている[33]。タイムズによれば、「注意深く保存された廃墟は、シリアの一世代の巡礼地となっている」[34]。
クネイトラを観光客が訪れることも可能だが、許可が必要であり、軍の案内人が観光客の監督につく。標準的なツアーではクネイトラの病院跡、モスク跡、正教会跡などを回る。市の中心にある古いキャラバンサライの建物を使った「解放されたクネイトラ博物館」では、古代から中世の遺物を展示している。市の西端はイスラエル管理地域との間の無人地帯が始まる場所である。この境界は閉鎖されており、クネイトラからイスラエル側へ出ることはできない[35]。国際連合安全保障理事会決議1701(United Nations Security Council Resolution 1701)は、2006年イスラエル・レバノン紛争の解決の為の国連決議である。2006年8月11日の国際連合安全保障理事会で満場一致で承認された。8月12日、2名のヒズボラ党員を含む、レバノン内閣は全会一致で承認し、同日、ヒズボラのリーダー、ハッサン・ナスララは停戦合意を表明した。8月13日にはイスラエル内閣が24対0(不参加1票)で決議に合意し、2006年8月14日午前8時、国際連合仲裁により停戦した。